「凛として生きる」 第3回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年1月
更新:2020年2月


馬鹿も休み休み言え

2005年2月22日(火)

2月に入ってすぐ、CT検査、MRI検査、骨シンチ検査を受けた。今日は、その検査結果の説明を受けることになっている。待合室にいるときから気持ちが動揺している。深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとするのだが、また再発を言われるのではないかと不安になる。診察室に呼ばれ、先生の前に座ると心臓が文字通りドキドキする。

再発を告知された時の衝撃、5年生存率10%の衝撃が、記憶の中にしっかりと残っているのである。

先生は机の上のパソコンに画像を映しながら「CT検査では、右肺の縦隔側に放射線治療によると思われる影がありますが、とくに心配はいりません。また、再発を疑わせる異常影もありません」。さらに続けて「脳のMRI検査と骨シンチ検査ともに異常ありません」と結果を説明してくれた。

再発後1年目の検査を全てクリアした。

診察室を出て直ぐに家内に電話を入れた。嬉しさがこみあげてくる。

4月10日(日)

家内と桜を見に越生(おごせ)へ行く。越生駅から歩いて数分のところにある報恩寺に桜の大木がある。境内一杯に満開の桜が広がっている。見事である。

1年前、平成16年の4月にT医科大学附属病院のバス停で、「来年は見られないかもしれない」と思いながら満開の桜に我を忘れて見入っていた。何時再発するかもしれないという不安は常にあるけれども、たった今こうして元気に桜を見られることに感謝すること頻りである。

1時間ほど散策して、ゆうパーク越生へ。ふれあいの湯では、日曜日で、家族連れが多く来ていた。例によって子供達がはしゃいでいる。

11月26日(土)

今月になって毎週のように越生へ行っている。今日も午前中、歯の治療を受け、その足で越生に行く。

コンビニで飲み物と握り飯を買って歩き始める。報恩寺、無名戦士の墓を通って、大高取山へ向かう。途中の見晴台で腹ごしらえをし、大高取山の山頂へ。そこから下って桂木観音経由で、4時頃、ゆうパーク越生へ到着した。約3時間半の道のりを歩き通した。体力の回復を実感した。

11月30日(水)

今日は朝から落ち込んでいる。昨日から腰が痛い。肺がんが腰椎に転移したのではないかと不安になっているからである。肺がんになる前は、腰が痛くても無理な運動をしたからだろうとか長時間机に向かっていたからだろうと考える。肺がんになってからは、どうしてもまず骨への転移を考えてしまう。他の体調の変化についても同じである。胸が痛ければ、肋骨か胸膜に転移したのではないかと不安になる。喉がいがらっぽく感じれば、肺の何処かに再発しているのではないかと疑う。

家族でさえ心配のし過ぎだと笑うときがある。第三者であればなおさらである。「馬鹿も休み休み言え」となるのがおちである。しかし、1度がんに罹ると身体の変調に気づくとまず再発を疑うように思考回路が出来上がるようである。4日前には、大高取山を歩き、意気軒昂であったにも拘らず、今日は腰痛で落ち込み、がんの再発の不安に怯えている。

自分の人生を生き切ろう

2012年、高尾山へ

2007年3月30日(金)

明日が土曜日であるため、金曜日の今日30日に退職辞令が交付された。明日平成19年3月31日付で定年退職である。

退職辞令を持って、慌ただしく庁内の挨拶回りをし、夕方から送別会、花束をもらって夜9時過ぎに家に帰る。4月1日付で、東京都職員研修所(現在の人材育成センター)へ勤務することで内示を受けているので、完全なリタイアとは異なるが、がんになりながらそして職場に多大な迷惑を掛けながらそれでも定年退職できたことにやはり感慨が湧く。

K病院への入院を翌日に控え、机の中、キャビネットの中を整理し、ひょっとするともう戻れないかもしれないと思いながら、第一庁舎を見上げたことが遠い昔のように思えたりする。

8月31日

縦隔リンパ節に再発し、治療が終わり経過観察に入ってから3年が経つ。体力は確実に回復していると実感できるのに、心は常に揺れ動いている。5年生存率10%と言うことが重く心にのしかかっている。

この4年間、肺がんに関する一般読者向けの本を読み漁り、インターネットで肺がんの闘病記を読み漁った。自分が5年後に生存している10%に入るのかどうかその手がかりを掴みたかった。闘病記を読みながら、肺腺がんで縦隔リンパ節に転移があった人を見つけるとメモをとりながら経過を調べた。しかし、個別の症例をいくら集めても、自分がどうなるかという最も知りたいことについては有益な情報を得ることは出来なかった。

5年を経過したからと言って必ずしも治癒したことにはならないことも知った。闘病記で5年経ってから再発している人が少なからずいるのである。病院で知り合った患者仲間で、9年目に再発した人と出会ったこともある。

5年生存率というのは、おそらく医学的には重要な意味を持つのだろうが、患者の立場からは、多くの意味を持ちえないこと、自分が再発するのかしないのかその本質的な情報とは一切関係ないことを理解するようになった。

結局、がんになるということは、何時再発するかわからないという不安定な状態に常に置かれ、その中で生きていくことになるという明白な事柄に気がついた。

再発するのかどうか、5年後に自分は生きているのかどうかを考えるのを止めることにした。日々を凛として生きる。やるべきことをやって生きる。それで十分ではないかと思った。

1年後に再発するかもしれないし、3年後かもしれない。もしかすると再発をせず5年も10年も生きられるかもしれない。でもそれは、単に結果にしか過ぎないのである。その間を如何に生きるかが大切なのだと心から思うようになった。

11月3日(土)

久しぶりに越生へ。今日は、文化の日。爽やかな風が気持ち良い。虚空蔵尊へ向かって歩いていると、青い空に浮かんだ雲が明日香の顔に見えた。笑っている。「お父さん」と声をかけられたような気がした。

突然、何の脈絡もなく、明日香は21年3カ月という自分の人生を精一杯生き切ったのだと思った。懸命に生きたのである。「若くして死んで、きっと無念であったろう」とか「親より先に死ぬなんて……」と言うのは生き残った者の身勝手に過ぎないと思った。

親として大切なことは、21年3カ月という明日香の人生をそのままに、あるがままに受け入れる事であると思った。21年3カ月を共に生きてくれたことに感謝することであると思った。

これまでの親としての勝手な思い込みが、明日香を傷つけていたのではないかと思った。歩きながら涙が溢れてきた。前方から年配の夫婦が、ハイキング姿で近づいてくる。脇の桑畑に入ってゆっくりとティッシュを取り出し、鼻をかんでやり過ごした。それからは、虚空蔵尊の手前の小川まで人に会わずに辿りつけた。ここは昨年家内と蛍を見に来たところである。小川の淵に腰を下ろして静かに泣いた。

小川の水で顔を洗ってから、ゆうパーク越生に向かった。歩きながら私も懸命に生きよう、自分の人生を生き切ろうと思った。それが、明日香の真の供養になると考えた。(続く)

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