「必ずまた、戻ってくるから」 第1回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年4月
更新:2020年2月


病気に飲み込まれてしまう

私はこのとき、家族以外にはごく限られた人にしか病気のことは知らせていなかった。まだがんが確定する前の検査の段階で、大量出血して緊急入院したことがあった。生まれて初めて救急車に乗り、止まらない出血に意識が朦朧(もうろう)となったが、幸い適切に処置してもらって1泊入院することになった。

仕事に行く予定だったので鞄にはパソコンと日常的な荷物のみで入院の準備は勿論のこと、出血で汚れた衣類の代えもなかった。

その時点で、私はかつて勤務していた会社の上司と長年の親友にベッドの上からメールした。「自分はたぶんがんだろうが前向きに頑張って治療するので心配しないでください」、と。

自分がいま置かれている状況とそれに向かって頑張る覚悟、宣言を誰かにすることがとても重要だった。少なくともその時は無意識にそう思った。

無頼(ぶらい)を気取り、なんでも淡々と解決していくのが自分の人生の方針であっても、この重大なことを誰かに「報告する」ことでひるまずに前進できる気がした。

「報告する」という義務は会社員でなくなった私には無縁のもので、すべての決断、すべての責任は自分にあるのだが、今回はそれではコケる、病気に飲み込まれてしまうと思ったのだ。生きるために、治療するために、私からの報告を聞いてくれる人が必要だったのだ。

このとき報告した2人は、以来ずっとそれぞれのスタンス、それぞれの個性で私を応援し支え続けてくれている。

自分にとって最良の治療法は何か

2013年、子宮頸がん発覚直前。ビジネススクールの同窓生と

後日、社会人になってから通ったビジネススクールで出会った、年齢が10以上も離れた同級生の友人にも病気のことを伝えた。彼自身も数年前に喉頭(こうとう)がんを患ったが、いまでは社会復帰を果たしていた。

この友人に病気のことを伝える前に、私は大きな発見をしていた。それは、がんはやはり特殊な病気であるということだ。自分自身は何カ月も前から不安な時期を過ごし、告知を受けるころにはある程度覚悟も決まり、がんを受け入れ始めている。

しかし、その知らせを受け取る第三者は決してそうではない。ある日、当然まったく健康体だと信じて疑わなかった人から、死を連想させる病に罹患していると聞かされるのだ。幾人かにさらりと伝えてしまった際に非常な衝撃を与えてしまったことで、「当人が消化できていても聞かされる他人は違うのだ」ということを改めて知って以来、滅多なことでは他人に伝える必要はないと理解した。

だから、この友人に伝えることは、他の誰にも伝えるのとも意味が違ったのだ。結局その彼は、誰にも真似できないような大活躍で最初から私と共に病を見つめてくれ、その当時、つまり手術を控えた全身検査中の1カ月間に起きていた急な事態に対しても、まさに感動的な献身を示してくれたのだった。

そのきっかけとなったのはある衝突からだった。当時、今思えば幸いにも検査期間が1カ月もあったことで、私は改めて自分の病状に対する治療法について調べてみる気になったのだ。すると、担当医はしきりに手術を推奨していたのだが、私のがん腫、ステージでは放射線療法も有効で、治療成績と再発リスクでは手術と同じとの見解が一般的になっているようだった。

加えて手術では開腹手術の負担だけでなく、子宮の周囲にある膀胱などの神経を傷つけてしまうことや、リンパ節の郭清(かくせい)によって軽視できない後遺症が発症するらしいことがわかってきた。手術を薦める医師はこれらのことを一言も言わなかったのだった。

彼が著名であったことに私は目を眩まされ、「自分にとって最良の治療法とは何なのか」についてまったく自分で調べようとしなかったのだ。

手術と入院の予約は済み、後は日程の確保を待つだけという猶予期間において、この手術について抜本的に考え直す必要が出てきたのだった。

「生きるとは」について格闘する

根治(こんち)や延命を望むなら生活の質は諦めなくてはならないのか? がん患者はそんなことを望むのは間違いなのか? そんな問いが改めて浮上し、臨床データや各種論文を集め同時に私の思う「生きるとは」についてやっと重い腰を上げ格闘することになった。

しかし、患者である私自身がそのときまで手術至上主義であったぐらいなので、両親も周囲も「手術をすれば治るのに何を今さら御託(ごたく)を並べているのだ」というような反応で、孤立無援の虚しさを味わうことになった。

なかでも、それまでがん経験者としてアドバイスや応援をしてくれていた友人ですら、まともに取り合ってくれず、「女性は帝王切開で手術をしてもすぐに元気になるのだから」という手術を支持するメールを受け取ったときは、本気で独りぼっちだと思った。

がんという病ゆえの開腹オペと出産のオペを同一に語られたことに憤りすら感じた。しかし、そのことを黙ったまま彼を遠ざけるのは私の主義に反する。

無用な衝突かも知れなかったが、あえてその意見で感じた不信感を彼に伝えたのだ。それは賭けにも近い内容で、勿論私自身にも痛みが伴った。

彼はがん種、ステージの状態で最初から手術不可能であったため選択肢がなく、放射線化学療法を提示され、その通り実施したのだった。

「もし仮にあなたに手術の選択肢があって、その結果声帯を失って声が出なくなったとしても今のような自分でいられたのか、そしてそれでも私に他の可能性を探らず手術すべきだというのか」、と。

後日、彼の名前をメールの受信フォルダーに見たときにはやはり緊張したのを覚えている。(続く)

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