「必ずまた、戻ってくるから」 第2回
生還を誓う「約束」は、将来のために結ぶもの

5月が去ろうとしていた。萌える新緑の若々しい生命力に街は満たされていた。新聞や定期購入物の配送を止める手続きをして当面の生活用品は、先日父が車で運んでくれていた。
それなので、衣料や化粧品などの身の回りの荷物を作りながら、昨夜の幸せな記憶を蘇らせていた。緊急入院時に私が真っ先に連絡をした元上司は、それ以来、私の事をずっと気にかけてくれていた。今は一緒に働いていた当時よりも、多忙さと昇格した役職ならではの重圧も増しているにも関わらず、だ。
彼女は「難しいことは分からないけど自分は壊れた機械のようにがんばれ!って言い続けるしかできない」と言ってくれた。涙が出た。“がんばれ“という言葉は、人によって、また時によっては逆の効果が出る言葉であることを知り抜いた上で、いまの私にはそれが必要だということを真なる切実さでもって教えてくれたのだ。
その言葉を言うことに覚悟がいったと思うから泣けた。そしてその励ましに「Mさんに恩返しが出来るようがんばって必ず治します」と言うと、私の目をひたと見つめて「約束したよ、絶対だからね」と返された。
「あぁ、この人だけは裏切れない、この人との約束を破るようなことだけはしてはいけない」、そう思った。
約束は将来のために結ぶものだ。約束を果たすために生きるというのはすごく力強いことだな、と感じた。
帰る場所とは、距離を超えた心のなかにある
東京を一時離れることになり、その最後の夜、彼女が声をかけてくれ、かつての職場の大好きな仲間たちが多忙の中、私の住む街に集まってくれた。
夜中まで働くような職種の人たちが、19時というこのメンバーにしては信じられないくらいに早い時間に都心から駆けつけ、私を病人として扱うことなく、「ただ楽しく食べて飲みに来た」という体(てい)で笑いあってくれたことは言葉にならないくらい有難かった。
みんなはきっと、私を家まで送ってくれた後、また仕事に戻るのだ。笑顔、笑顔の彼らに囲まれて愚かな自分の面の皮がまた1枚、「ひらり」と落ちた気がした。
東京にしか人生の軌跡がないからと、何を勝手に無頼を気取っていたのだろう。帰るところとは場所ではないのだ。彼ら彼女たちがいるならどこにいたとて私には帰る場所があるのだ、と根無し草の呪縛からやっと解放された気がした。
さて、少し話を戻すと、検査の結果、転移が疑われる所見があった。しかし、2���の検査画像ではそれぞれが曖昧な様相を呈していて切除してみないとがんかどうか不明だと医師に言われた。それはショックではあったがもとよりその現実を受け止め、しかる後に次のアクションを検討する私の性格のため動揺はあまりなかった。
とにかくこの病を自分のものとして捉え、しっかり治していくためには改めて病院と医師を選びたいと思った。今の医師とは私は患者サンプルとしてしか見られていないようで医師と患者という意味での良い関係が作られていなかった。
医師の人生観が治療生活に影響する
子宮頸がんが女性特有の病で生殖器に発生するがんであることは、私が直面する問題を2重に難しくしているように思う。他の部位のがんであっても生活の質を考えて治療法の選択には悩むけれど、出産をするための子宮、女性ホルモンを分泌する卵巣などの機能の喪失によるダメージを深く考慮しなくてはならない。
同時に、喪失するにあたりその精神的ダメージが大きいのがこの疾患が持つ重要なテーマなのだ。
その重要なテーマを医師がどう扱うか、どう捉えるのか、その医師の人生観が患者の今後の治療生活が希望に満ちたものになるかどうかを左右する。
だから最初の医師が紹介状を書いてくれたくだんの医師に治療を丸投げするのではなく、自分自身の人生を諦めないためにも自らが希望する病院と医師を探し出そう、と思ったのだ。そして私はとうとう見つけることになる。「この医師と病気に向かいたい」。
しかも、病気について調べていく過程で、その医師が偶然にも両親の住む場所に存在したこと、この偶然を発見したときの胸の震えは今も忘れられない。
「運命だ」と、少女趣味かも知れないがそう思わずにはいられなかった。親元に身を寄せて治療をすることが最良の道として提示された思いだった。
ただ20年ぶりに両親と生活を共にすることにも若干の不安があったものの、それも新しい挑戦なのだと覚悟を決めて東京の部屋の鍵を閉めた。必ずまた、戻ってくるから。そう誓って。(続く)