「必ずまた、戻ってくるから」 第3回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年6月
更新:2020年2月


あれほど苦しんだ痛みすら忘れることができる

最終的に年齢を考え、片方の卵巣は温存することができた。

これは特筆すべきことで、検査で転移の疑念が上がっているのは、右の卵巣にも近いリンパ節であり、卵巣は転移しやすいと聞く。

私の状況であれば左右両方の卵巣を摘出するのも本来やむなしのはずで、実際、当初の医師の判断もその予定であったのだ。

もともと、私は片方の卵巣を残すことに一縷(いちる)の希望を抱いてこの病院に転院したのでもあったが、やっぱり、病が進行していることもあってそれは叶わなかった。

最初に「卵巣両側摘出」を告げられたときは少し落ち込んだ。でも、転移の確率を考えれば仕方ないこと、と自分を何とか納得させていたのだ。

しかし、実際に一般的な更年期症状のように、緩やかに女性ホルモンの分泌が弱くなっていくのと違って、手術によって卵巣を失えば一挙に女性ホルモンの分泌は止まる。

これを卵巣欠乏症というらしいのだが、全身に多大な影響を及ぼすのだ。これは非常に深刻な問題だったので、主治医が何とか卵巣を残す方法を考えてくださったことに胸が詰まったのを覚えている。

術後当日の夜はICUで1泊し、細心の注意を払った看護下に置かれる。この日、痛み止めのモルヒネ(?)だと思うが稀(まれ)に出る副作用の幻覚に襲われ、短編の奇妙な夢ばかりを見て自分の叫び声で目が覚めた。(とは言っても実際は麻酔が覚めてから1度も水が飲めなかったのでカラカラに乾いた喉からは声なんて出てはいなかったのだけど)。

この日は不思議と痛みを感じることもなく目を閉じれば眠れたのだけれど、左脚の様子がおかしいことに気づく。どうやら軽い麻痺が起きてしまっていたようだ。

朝になると一般病棟に移され、改めて術後の回復を図るための日々となった。不思議なのは「絶対に忘れることはない」と思うほど激痛に苦しんだのに、今これを書きながら痛かったという事実は鮮烈に覚えているものの、どれくらい痛かったかはどうしても思い出せないのだ。

つくづく私たちの身体は巧くできていると思う。もし、痛みの感覚の記憶が残っているとしたら恐ろしくてとても前に進むことは出来ない。苦しみの記憶が癒されることがなかったら、新しい挑戦なんて出来やしない。

この「忘れる」という体験がどれほどの恩寵なのかをこの時期つくづく考えさせられた。

要するに私たちの生命というものは、生かされるためにしか存在していないという事実に生まれて初めて直面させられたのだった。

一般病室ライフスタート

これから幾度となく通い詰める、病院の屋上庭園

6月11日 いやー、思い出すことすらしんどくて、なかなか次の記事を書くことができませんでした。そのくらい術後24時間後が最もつらかったです。

ICUで一体どんな痛み止めを使ってたのだ? というくらい襲い来る激痛。お腹が! お腹が! もうね、「どんな痛さ?」という問いに対して私は全く正確に答えられない。

それほど未知の痛みだった。しかも激痛。ただ痛いなんてもんじゃないです、激痛(しつこい)。開腹した表面の傷と、中身の切除された箇所の傷、それと未知なのが、内臓が大暴れしているんですよ。その痛みが半端ない。

最初、映画の『エイリアン』を思い出すくらい何かがうようよと蠢き始めて、痛みで気を失いそうななか「何だ⁉︎ 何か飛び出てくるのか⁉︎」と怖くなるほど内臓が大運動会。そいつが痛いのです(まったくしつこい)。

なので手術翌日から3日ほどは、痛みのなかで疲れ果てていつか眠りに落ち、2時間ほど経つと痛みで目を覚ます日々です。

その間も白衣の天使たちが甲斐甲斐しく傷の世話をしてくれて、管につながれまくりの動けない自分のお世話をしてくれたのだった。そんな中、くだんの左脚だ。

仰向けに寝ていて、「上げる」と命じても足は動かない。右は動く、というか何かの動作をするとすべてお腹に反応するので痛みもあって出来ない気がする。

術後2日目、「歩いてみましょう」と言われるが、出来る気がしない。全くもって。

でも最近は傷の癒着を防ぐのと、回復が早まるとかですぐ歩かされるそうだ。点滴台とかお友達引き連れて。

で、初トライ。もうね、半身を起こすだけで絶叫しそうに痛いのです。だから皆は半身を真横にごろんとゆっくり寝かせ肩肘ついて腕の力で起き上がるんだけど、私はそれすら出来なかった。ベッドから立ち上がることが出来なかった。予定では昨日出来ているはずのことが。病院で初泣き。

看護師さんが「その涙は何の涙?」と聞く。

「予定よりこんなに遅れていて、本当に元に戻るんだろうかという不安と、予定に添えなかった悔しさ」と答える。とにかく想像や見聞をはるかに上回るしんどい日々の中にいる。

やった!

6月12日 涙の理由を尋ねた看護師さんが「今日の目標は、その場に立って足踏みが出来るまでにしましょう。午後またトライしましょうね。それと予定というのはあくまでも参考目安程度で。人にはそれぞれ体質、体力、すべて各人身体の特性があるんだから、予定通りに出来ることが治療の成果を問うものではないんですよ。人それぞれのペースで治療と回復があるんです」と話してくれた。

厳密に言うともっと柔らかい表現だったんだけど、私流に翻訳すると難くなってしまうのはご容赦。

で、午後です。前述の通り激痛に顔をしかめながら、まずは上体をごろんとして肘をつき腕の筋力のみで起き上がる。出来た。

看護師さんの肩をお借りしてゆっくりゆっくりと立ち上がる。出来た。

看護師さん曰く「出来るようだったら歩いてみよっか?」

無論頷く私。おしっこバック、点滴、といったお友達を引き連れて看護師さんに両脇から見守られ(手は貸さない。リハビリの意味がないから)数㎝ずつ移動する。

移動×移動の繰り返し。ナースステーションを1周する。ベッドに戻ったとき看護師さんが「私のほうが感激しちゃったよ。だってさっきは立ち上がれなかったのに……」と言われ、私ごときのことにそんな風に言ってくれた彼女の優しさにまた泣く。

この手術(広汎子宮全摘出または準広汎子宮全摘出)の記録を見ると「術後3日で歩けるようになる」とあるのだけれど、これが「歩いた」ということなんだ。

術前に何の意識をすることもなくサクサク歩けていたように歩けるのではないのだ。

ちなみに左脚は、どうやら麻酔薬の副作用だけではなかったみたいで、左側にドレーンの管を入れたことで神経に触れたらしく若干の麻痺が起きているらしい。主治医の説明によると投薬で少しずつ改善するし絶対に大丈夫! とのこと。

私は主治医を心から信頼しているので、医療従事者が使う「絶対」の意味の大きさと覚悟も想像できる。(治療生活ブログ『新規事業ほぼ日記、または日報』より)(続く)

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