「必ずまた、戻ってくるから」 最終回
8月20日 3回目抗がん薬治療を終えて
さて、抗がん薬をやって気になるのが白血球数の減少。お馴染み友人Iさんはこれが顕著に下がってしまい、予定は4回だったのに2回で継続困難となったそうだ。私は5月の血液検査では白血球数が54.1(基準値30~85×10^2/μl)だったが、2回の抗がん薬投与でそれが39.9になっていた。が、充分基準値内。これがどうなるのか。
また、血液の中の好中球が75.6(基準値37~72%)のところ上昇。これはどんな意味があるのか後で調べる。さらにやはりリンパ球は12.8(基準値20~50%)へ減少。
実数リンパ球も5.1(基準値6.2~44×10^2/μl)。リンパ球って実は、がんにはきわめて重要なものらしく代替療法の医師などは抗がん薬でこのリンパ球が減少すること警鐘を鳴らす人もいる。(以上、治療生活ブログ『新規事業ほぼ日記、または日報』より)

やはり記録をしていてよかった、と思う。今思い返して書いたとしても、ここまで当時どんな思いをしていたのか、具体的にどんなことが体に起きていたのか? などは記憶がぼやけてしまっている。
私は手術、放射線、抗がん薬とすべて体験したけれど、治療期間で最も身体的につらかったのはこの時期だった。体力がどんどんなくなってしまい、1日の大半を横になって過ごしていて、社会と隔絶されていることの恐怖に落ち込んでいた。そんな片鱗がやはり当時の記録にも残っている。
9月8日 あと1回。しんどい週末
とうとう明日で7カ月続いた治療がすべて終了する。全28回の放射線照射が終わるのだ。
だいたい毎月曜に抗がん薬を打つので、翌日から服用する吐き気止めを処方される。
これは3日間分しかないため、木曜夜あたりから毎週体調が悪くなる。薬が切れるからだと思う。
抗がん薬は無事先週で終了したので明日は放射線だけなのだが、今週も木曜からダウン。というか、腸の大ブレーキが復活して今日はほとんど食事できない。
初めてさっき、母の前で涙してしまった。もう、いい加減しんどい、この生活。血管炎の治らない左手が痛い。どんどんなくなる体力。安定しないおなか。悲しいより体がかわいそうになってつい泣いてしまった。こんなにがんばらせて申し訳がない。そして一瞬どうしてもよぎってしまう、「元のように元気になれるのだろうか」という不安。
と、こうして書いていると冷静になる私。
元気になれるだろうか、じゃないわ! なるんだよ! 意思力を信じている、自分の。そして体を。体力ないのは当たり前、こんなに白血球もリンパ球も腎臓も肝臓も弱ってるんだから。
「よ��やってるわー、むしろ! わははははは!」書いてすっきり落ち着きました。うっかり天気とともにダウン方向さまよいかけてもうた。「私は大丈夫」と、誰よりも私が私自身を信じているので問題ない。(以上、治療生活ブログ『新規事業ほぼ日記、または日報』より)
そしていま自覚した生命力の強さ、復活劇は地道に愚直に
このあと、すべての治療を終えた私はその月の月末にはもう、東京へ戻った。体の回復をぼんやりと待つことは許されない。フリーランスの自分は、働かなくては生きながらえるだけマイナス計上が続く。治療が終わっても半年以上は下痢が治らなかったし、1日起きているのがやっとの状態で、まず職探しに明け暮れた。
病気のことを伏せ、仕事を求める日々だったが結局就労の機会を得られたのは11月も半ばを過ぎたころ。その間にもどんどんお金もなくなり、実際よくやったなぁと今にして思う。死に物狂いの1年が過ぎ、2年、3年が過ぎる頃になると、黙っていれば病後の人間とは思われないような体力の回復ぶりを見せる。仕事も無事にフリーランサーとして復帰を果たし、4年が過ぎ5年目の2018年では全盛期に近い仕事内容をこなせるまでになった。もはや、病後とも呼べないほどだ。
かなり慌てて締めくくりに走るが、「がんと就労」、「がんとお金」については病中から病後にわたってさまざまなことに直面した。
5年が経過して今、新たに後遺症の治療も開始した。以前より動ける体となったことで、薄情で忘れっぽい自分を戒めるためにも適切な機会とすら思う。私の新規事業、「がんと人生を共存させる」歩みは、でこぼこと右往左往しながらも力強く進展している。(完)
*シスプラチン=商品名ブリプラチン/ランダ *プリンペラン=一般名メトクロプラミド