オルゴールがおわるまで 第1回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2019年6月
更新:2020年2月


わずかなお金がなかったお陰で私はこの世に生を受けた

かくして、末っ子の甘えん坊だった母は7人の義弟妹(ぎていまい)から〝義姉(ねえ)さん〟と呼ばれる身となり、竃(かまど)に火をくべ大釡に米をとぐことから始まる新しい暮らしを営みだした。

まるで家政婦になるために嫁にきたようなものであるが、当時はそれが当たり前と思い不満など口にする女もいなかった時代、母もまた例外ではなかった。看護婦で働いた自分の給料は封も切らず姑に預け、わずかばかりの生活費をもらう。そして、底のしれた財布の中から義弟妹たちに菓子を買ってあげたりもする……。

けれど、その後に待ち受ける暗雲を思えば、それはまだ序章とも言える穏やかな一時期であった。

「3年で子ができねかったら離婚だすけな!」(新潟弁)と、明治女の姑にきつくされつづけた2年目の夏、待望の長男、和雄は産まれた。産まれはしたものの、その身は僅か1,800gの未熟児で、「この子は生きられないかもしれない」と、誰もが思った。ところが、そんな心配をよそに、翌年の「赤ちゃん大会」では準優勝するほど健やかに育ち、そのまま今に至った。

折しも、私が母の胎内に身ごもられたのはそんな時である。けれど当時、我が家の暮らしは決して楽ではなく、「跡取りは1人いればいいすけ、さっさと堕胎(おろ)してこいて!」と、父は言い放った。

気が進まぬまま産科へ行くも、手術費用が足りず日を延べ、そのうちに堕胎(だたい)可能な時期は過ぎてしまった。母の手にわずかな金が無かったお陰で、私はこの世に生を得たというわけだ。

無意識のうちにその時が近いことを悟るのか

人は何年も前から少しずつ死ぬ準備をはじめる。そして、いよいよという時、無意識のうちにその時が近いことを悟るらしい。2015年、母はその年、前から行きたいと思っていた処、やりたいと思っていたことの全てをやった。

生まれてはじめての〝東京タワー〟

生まれて初めての〝ちひろ美術館〟

生まれてはじめての〝カヌーこぎ〟

生まれてはじめての〝ホタル狩りボート〟

「真綿をズーンと延ばしたような雲だねぇー」。そう、母は言ったが、その描写は実に言い得ていた。母は子供のころ……「母ちゃんがね、古い布団をといてチャンチャンコつくってくれたんだよ……」と、話してくれた。その時の延ばした綿の感じとそっくりなのだと。

信州の人は平均寿命が長いと言われるけれど、それはきっと、食生活のことばかりではないのだと思う。こうして、美しい景色を眺めているだけで、人はたぶん、寿命が延びるのではないだろうか……。

母は、「やっぱり安曇野に越して来て良かったねぇー。こんな景色、都会にいたんじゃ絶対に見られないもんね」と、何度も繰り返し言った。夏の初めのある日、「青木湖のホタルが見たい……」と、ボートツアーに出かけた日の夕暮れのことである。

湖上に瞬く闇のホタルを見ながら、「こんな凄いのカズにも見せてやりたいねぇー」と、母が言ったその数日後、久しぶりに埼玉・川口に暮らす兄、和雄から母へ電話があった。

生まれてはじめての〝水陸両用バス〟

生まれてはじめての〝天龍舟下り〟

「たまには3人で旅行でも行くか……」という、柄でもない兄の気まぐれな提案は、奇しくも母に〝冥土の土産〟を託すことになった。 血のつながりとは不思議なもので、思春期のころから何十年も仇(かたき)のごとく絶縁していた兄弟が、母の存在を鎹(かすがい)とし、その母への最後の孝行をしようとしている。

「オレはいったい、あと何度ギラギラするような熱い夏をすごすことができるだろうか。ただ暑いだけの夏なら誰にだって毎年やってくる。でもそうじゃない、ギラギラする夏だよ……」。昔、誰かがラジオで言っていたのを印象的に覚えている。まさに、母のあの夏はギラギラと輝いていた。

待望したイベント……そして〝運命の足音〟

ある朝のことである……。

母がアパートのドアを開け外へ出ると、いつものように近所の子供たちが5~6人ほど寄ってきて、「お婆ちゃんどこ行くの……」と、皆でワイワイはじまった。

「ほら見て、縄跳びするから、お婆ちゃん見ていて……」と、男の子が言い、「お婆ちゃん、これあげる……」と、女の子が小さな花をくれた。

車へ乗り込むべく「よっこいしょ!」と、掛け声を出すも、母の右足は意に従わず一向に上がらない。子供たちの後押しでようよう這い上がりはしたものの、どうも様子がおかしい。そう言えば、数日前から若干の不調を訴え、「近いうちに整骨院かマッサージに連れていって……」と、言われていたのを思い出した。

その5日後、母は突如倒れた……。(つづく)

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