オルゴールがおわるまで 第2回
「今の治療法では治せないというのが正しい認識だと言わざるを得ません」
11月23日(月) 放射線治療科、田上医師の説明。
田上医師「放射線をやるにあたり、まず目標を設定しなければなりません。無論、最善の目標は治すことなんです……。が、これは現実的に無理なので、第2選択を考えなければいけません実は脳腫瘍って治らないものなんです。
現代の放射線治療というものは未だ開発途上なので、今の治療法では治せないというのが正しい認識だと言わざるを得ません。ですから、出来るだけ小さくするというのが目標になります。問題は、どこまで小さく出来るかという事と、その代償としての副作用がどうなるかというバランスです。ここで言う放射線とは、原爆や原発の比ではなく、その何万倍という被爆量になります。ですから、それをもし、ピンポイントではなく全身にあびれば、人は1週間以内に死にます。それだけ強力な放射線を使うという事は脳の破壊を意味します。つまり、これはまともな治療とは言い難く、多くの場合、本人やご家族が期待するような長生きにはなりません。
はっきり言って、薬か毒かと言えば毒のほうが遥かに強いと言えるわけで、良かれと思ってやったつもりが、むしろ裏目に出てしまうという事も多いんです。とくに今回のように、脳の深い所にあると犠牲も大きくなりますから。それでも、石にくらいついてやる人もいますけど、延びたはずの寿命がつらいだけだった、植物人間のように寝たきりの期間が長くなっただけという可哀想な結果も沢山見ています。
だから近頃では、『ガンと闘わない』という考え方もあるくらいで、頑張ってつらい治療に耐えるより、自然に任せ、残された日々を大切に生きて行きましょうという発想のほうも増えています。 実際、放射線治療をしなければ、比較的長く意識が保たれるというケースも少なくありません」
昭彦「それじゃ、もし何もしなければ……」
田上医師「おそらく、3カ月から半年でしょう」
昭彦「では、当人は拒否していますが、手術という可能性はどうでしょうか」
田上医師「手術はもっとリスクとストレスがありますから、今の状況では、外科の先生も首を縦にふらないでしょう。なぜなら、もし手術をして成功したとしても、その傷が治る数カ月後には、すぐにまた下り坂になってしまうのは目に見えているわけですから、痛い思いをして、手術痕が回復するまで寝て過ごす時間が無意味になってしまうんです。 酷なようですが、どの道を選んだとしても、来年の桜が見られたら御の字 ……、というほどの状態ですので、支える家族の方が、その時に慌てないように準備しておかなければいけません。つらい中にも冷静さを保っておいてください」
昭彦「一応お話は解りましたが……、実は、抗がん薬はやらずとも、放射線治療だけなら受けてもいいと、ようやく決心したところだったんです。それなのに、やらなくてよくなったとは今さら言えません。母にどう話せばいいでしょうか」
田上医師「それじゃ、嘘の放射線治療をやりましょう。実際には放射線は出しませんが、ちゃんと治療台に乗ってもらって、お母さんを騙すしかないでしょう」
私の胸の痛みは癒えない
そうして、少しの待ち時間をつぶし、すぐに本物さながらの疑似治療は行われ、何人もの技士たちがその���に付き合い、母をうまく騙してくれた。
するとどうだろう……。母は安堵しきり、本当に元気になった。
母「これでまた長生きできるんだね。今の医学ってのは、すごいもんだ。やっぱり、放射線やってもらって良かったよ。ありがたいね……」
病いは気からとはよく言ったものである。嘘でも幻でも、母の笑顔があるならば……。 けれど、私の胸の痛みは癒えない……。これはもしかすると、母に絶望を2度味わせる事に過ぎないのかも知れない。

11月29日(日) 兄が見舞いに来たので、外出許可をもらい一時帰宅することにした。
母は髪を後ろに束ねようとしているが、なかなか出来ずもどかしげだ。どうやら、麻痺症状が少しずつ手にきているようだ。
病院を出る前、母がトイレによりたいと言い、1人でヨタヨタと婦人トイレに入っていった。そして程なく、「あきひこー、あきひこー」と、母が慌てて私を呼んだ。母は既に1人ではズボンを下すことも便器に座ることも出来なくなっており、しかもその事実を当人も初めて知ったらしく、ひどく狼狽していた。
介助して用をすませた後、ズボンを上げてやろうとした時、不意に母の腹に手が触れた。母の下腹部には、私たちを産む時にできた帝王切開の傷痕がある。
子供のころにそれを見たことはあっても、触ることはなかった。 私はこの腹を破って産まれてきたのだと思った途端、溢れる涙を抑えることができなかった。命がけで私たちを産み、命がけで育ててくれた母は、今、なに恥ずることなく、子の助けをうけ小便(いばり)をしている。
まるで形見分けじゃないか……
両の脇を兄と2人で抱えアパートに入り、座敷の仏壇の前に母はドサっと座り込んだ。
「母ちゃんただいま、帰ってきたよ……」と、祖母の写真に母が言った。母はいつも、そうして20年以上も前に他界した祖母に話しかけるのを日課としている。
そして、クロゼットの中を整理したいと言って、私に扉と引き出しの開け閉めを命じた。ネックレスやブローチ、それに綺麗な柄のスカーフやハンカチの山をつくり、親しい人たちが見舞いに来た時にあげるのだと言って小袋に分けた。どれも安物ながら、母が好きで集め大事にしまっていたほぼ新(さら)の物ばかりだ。 まるで形見分けじゃないか……と思ったが、私も兄も口をつぐんだ。
貪欲と執着から離れる事が人としての解脱(げだつ)と言われるけれど、既に母はそうした境地に至り、一切の物欲を必要としなくなっているのか。
「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財こそ第一なり……」
母のアパートの玄関に掛けられたカレンダーに書かれていた。 先達の言によれば、蔵の財と身の財は現世に置いて逝かなければならないけれど、心の財(たから)だけは来世への持ち越しが出来るのだそうである。
12月4日(金) 奈良井病院を出て高瀬医院へ再転院する朝、母はお気に入りの歩行器を使い、自分の足で退院した。
駐車場の前まで来て、車を持ってくるべく、支えていた母の右腕を離そうとした時、母の右膝がガクリと折れた。すぐにまた抱えたので事なきを得たものの、どうやら症状の進行は少しも待つことをしてくれないようだ。
高瀬医院につくと数名の看護師たちが出迎えてくれ、すぐに車椅子が用意された。廊下をすれ違う看護師たちは皆、「あら、ザンマさん、こんにちは……」と、口々に挨拶してくれ、「ただいま、また舞い戻ってきたわよ……」と、母も笑顔を返す。そして、「やっとほっとしたよ。ここが一番安心だ……」と、涙に目をふせた。(つづく)
