オルゴールがおわるまで 第3回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2019年8月
更新:2020年2月


あなたの背中はいつだって私のシェルターでしたよ

2月16日(火)晴 歳をとれば年々徐々に衰えるは必然。誰もが辿る先だ。だから、本人も端もそれほど急には気づかない。けれど、母の病気は違う。

文字通り、昨日できたことが今日できなくなっているのだから、そのショックは甚(はなは)だこたえる。とりわけ、やはり本人は愕然たる不安にさいなまれるのだろう。

昔、ある水俣病患者が、「だんだん自分の身体が世の中から引き離されていきよるごたぁ気がするとです……」と、言った言葉が残されている。

きっと、今の母の心境がそれなのではないだろうか。子である私がどんなに苦しみを共にしたいと願っても、看護師たちがいかに 献身的につくしてくれようとも、岸から離れていく小舟に乗っているのは母ただ1人……。

がん患者は、ひたすらに孤独であると聞く。その底なしの不安の前には、誰も為す術を持たない。けれど、せめて今は母の傍らに寄り添い、この時を共にしてあげたいと願う。

遠い昔、風邪を引いてゼーゼーと唸る私の背中を、「つらいね、苦しいね……」と、さすりながら泣いていた母のように。

2月26日(金)晴 その晩の帰り際のことである……。「消灯だから帰るね……」と、立ち上がる私に、「帰るって、お前いったい何処に帰るの……」と、妙な事を母が言った。

「何処ったって、自分の家に帰るにきまってるじゃないか……」 もしかすると、ここをどこかの旅館か何かと勘違でもしているのだろうか。私と一緒に旅行に来ていると思っているなら幸せで良いのだろうけれど、こうしていつか……。

2月27日(土) 昨夜の嫌な予感が当たってしまった。「肩の痛み、どうしたら治る……。母ちゃん、ヨシ子、肩が痛いのよ。どうしたらいい、母ちゃん教えて……」と、天井を見つめ祖母の姿を探しはじめた。母は白昼夢を見ているようだ。

昨日の帰り際、もし本当に、母は私と一緒に何処かの宿に泊まっていると思っていたのだとしたら、その母を1人残して帰ってきてしまったのがいけなかったのかも知れない。それで今日、母はこんなに混乱してしまったのではないだろうか……。

3月1日(火)晴 母を背負いて、見知らぬ街で道を探して歩く夢をみた。私の他に頼る者のない母が可愛く、愛おしくてならない。

降りだした小雨に気持ちが萎えるも、我が背に母を感じているだけで心細さが癒える気がしていた。嗚呼 母よ、幼き私を背負いし貴女も、こんな想いでつらい道を歩いていたのでしょうか。独りではないという心丈夫は、背負う背負われるが替わり、腹の温みが背になっても同じであった。

お母さん、あなたの背中は、いつだって私のシェルターでしたよ。

夢に見る 母の姿は
けざやかに
なれどマッチを する如き夢

3月7日(月)曇 「誰かが外で声かけているよ……。でも言葉が通じないのよ……。喋っても伝わらないの……」やお��、母の悪夢が始まった。

母「怖い、怖いのよ。恐怖なんだよ……」

昭彦「怖くなんかないよ。今はちょっと夢を見ているだけ、もう少ししたら 覚めるから、大丈夫だよ……」

私はたまらず、初めて母を抱きしめた……。そして、堰(せき)を切ったよ うに声を上げて泣いた。腕の中で、母も泣いている。でも母は体力がなく、時々泣き声をやめ、しばらくヒクヒクしたあと、またオンオンと声をあげ「怖い、怖いのよ……」と、呻(うめ)く。

そうして、どれくらいの時を過ごしただろうか。ひとしきり泣いたあと、母は私の名を呼んだ……。

いま母は、否、おそらく誰もが、自分という存在がこの地上から無くなってしまうという想定を理解できない。今ある意思・思考は何処へ行ってしまうのかという認識が計れない。だから、恐怖せざるをえない……。

何年か前、難病をかかえた或る友人が言っていた。「人がいつか死ぬという事は解っているけれど、その期限を言い渡されると、その瞬間から恐怖が始まるんだ。それが1年でも10年でも20年でも関係ない。『君の病気は治らない。でも、同じケースで最長18年生きた人もいるよ ……』って、何の慰めにもならないんだよ。まるまる生きたって18年でしょ。それに向かって秒読みを数えるだけのことだ」

絶えた命は一旦宇宙へ還り、また新しい姿を得る。それを本当に信じる事が出来れば、人は死を恐れなくなるのだろうか……。

3月14日(月)曇 母を苦しめる失語症がいよいよひどくなってきた。脳腫瘍患者特有の症状である〝失語症〟とは、発声器官そのものの障害でなく、発語や言葉の理解が困難になる病気だ。

そして近ごろでは、〝ありがとう、ありがとう〟と繰り返すばかり……。

〝残語〟といって、その人が最もこだわり執着している一言を残し、徐々に全ての言葉をなくしていく、この病いの典型である。そうしてさらに、いつかそれさえも失ってしまう。

ゴクンゴクンと喉をならしながら、母は栄養ドリンクを飲み干した。そして一息つくと、「あー、やっと正気に戻った」と、言った。

「また夢に行ってたのか」と尋ねると、「うん」とうなづく。側にいる私には気づかなかったが、母は常にそんな行き来を繰り返しているのか。自分が自分でなくなる様を、俯瞰(ふかん)する母の心境たるや如何許り……。

3月26日(土) 高瀬医師より、定例の検査報告である。

「先ず、腹部リンパ節の状態は先月より更に小さくなっているのが見て取れます。このような経緯から推察すると、やはり、腺がんと(奈良井病院で)言われた当初の診断そのものが疑わしく思われるほど落ち着いています。

(つまりは誤診であったのやも……というほどのニュアンスであったが、母の死後、再度、沢田医師を訪ねたところ、「定的脳手術などの然るべき検査に基づくものではないが、染色結果からは腺がんに見られるべき形が認められ、それは99%黒であった……」との見解を得た。つまり、不思議であろうと奇跡であろうとも、とにかく母はがんに勝ったのだ……)。

腹部リンパ節の状態が1カ月前のCT画像(左)より小さくなっている

それに対し、脳腫瘍の長径は6㎝その周辺に浮腫みも出てきており、脳梁(のうりょう)体側部への広がりも認められます。

但し、脳動脈の閉塞は見られません。今後起こりうる病態としては、広範囲脳梗塞や腫瘍からの出血などが懸念され、それが一旦起きれば、急激な意識障害・呼吸および心停止につながる恐れもあります。ですから、向後(こうご)のリハビリ実施や息子さんがやるマッサージについては、特に細心の注意が要されますので気をつけてください」

言語・運動能力の衰えや食欲減退も、つまりは脳腫瘍の肥大によるもの。諸事、先が思いやられる……。(つづく)

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