オルゴールがおわるまで 第4回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2019年9月
更新:2020年2月


少しは勇気づけられたのだろうか

4月23日(土)晴 今日は思いっきり夏日……。陽気のせいか母の機嫌も少し良く、食欲のほうもまぁまぁだ。つぶしたイチゴにコンデンスミルクが近ごろの母のお気に入りで、すぐに飲み込んでは催促の口を開ける。この調子で主食も食べてくれたらもっと良いのに……。その母が〝お前も食べれ〟という仕草をした。このところ食べさせてもらうことに徹していた母にしては珍しい事だ。今、母は覚醒している……そう思った時、ふと涙がこぼれそうになった。

青森に住む友人と久しぶりに電話で話した。仕事を通じて親しくなった彼は、若い頃からの糖尿病の派生で腎不全を起こし、今は透析(とうせき)を受ける身となっている。

一時期、5年生存率50%と言われたものが、既に5年以上を経過して、それから更に数えての5年生存率が80%……。

つまり、彼の容態は改善思わしく、また、医療の日進月歩を意味している。ただ、その代償に、この度、壊死した左足を無くすことになった失意を除けば、すこぶる意欲的に人生と事業に立ち向かっている。

彼とは、母も9年前の東北旅行の時に一度会っている。

「半年、1年と生き延びてさえいれば、新しい治療法も必ず見つかるっていう事だよ……」と、つい気休めを言ってしまった私を見上げ、母は「ありがとう」と、小さな声で言った。少しは勇気づけられたのだろうか。

しかし、彼の闘病姿勢が多くの人の励ましとなっている事は事実であり、彼は今、医療関連の法改正を目指し、しばしば東京(国会)へ足を運ぶ事を生きる糧(かて)としている。

そんな母を愛おしく思わずにはいられない

4月29日(金)晴 『市川左団次門下 萩井流花萩会素踊りおさらい会開催のご案内』という、長いタイトルの葉書が母のアパートに来ていた。行きたいかと聞くと、母はコクンと小さく頷(うなず)いた。主催者に電話をしたところ、会員ではないのだが、毎年来てくれるので今年も招待したとの事であり、介助を手伝ってもらえるか否かを尋ねると快諾を得、着物を粧(めか)して出かけてきた。

1人目の踊りが始まるやいなや、母は泣き顔になった。

よほど嬉しいのだろう……。感情も感性も感受性も、母の心は全て正常であることを知り、私は胸を詰まらせた。いつもならお昼寝タイムの母は、熱心に凝視して飽きることを知らない。

そして2時間、小さく母がうめいた。さすがに少しくたびれたのか……。

やむなく中座して帰ることにしたが、この前の花見の時のような疲労の色はない。

がんばって楽しんだ母へのご褒美として、駅前の不二家でケーキを買って帰ることにした。病院の食事はイヤイヤをしても、無論、これは別だ。

5月1日(日)晴 いつしか春は過ぎ、もう初夏の日和だ。去年11月、余命宣告を春までと言われた母が、今、夏を間近に迎えようとしている。

「今日は〝高級〟シュークリームを買ってきたよ……」

大きな口で2口ほおばったあと、〝もういらない〟という表情をしたもので、クリームだけを指につけ、母の口へ運んだ。赤子が母親の乳房を欲しがるように、美味そうに私の指��なめる。何度も口を開け催促し、母は私の指を吸った。そんな母を愛おしく思わずにはいられない。その昔、母も私をこんなふうに見つめていたのだろうか。

日本舞踊おさらい会に出かけたヨシ子さん

映画『二十四の瞳』のロケに使われた田浦分校前で

5月3日(火)晴 『二十四の瞳』(壺井栄著)のDVDを持って来てみた。ムスメのころ、看護学校の講堂で観たというこの映画が母は大好きで、「何度みても泣けるねぇー」と、いつも言っていた。12人の生徒と女性教師の絆を描いた戦時中の物語だ。

観始めのうちは、ただ呆然と目を向けていた母が、「♪かーらーすーなぜなくのー」と、歌が聴こえた途端、目をしばたかせた。

それからずっと、画面に目を釘付けされていた母が「うううー」と、呻(うめ)いた。何か言いたいのかと思い顔を覗き込めば……、どうやら感極まって泣いているようだ。修学旅行の先で、中途退学した教え子のマツエと大石先生が再会した場面であった。

まだ母は、これだけの感受性を残している。

否、むしろ鋭くすらなっていると思えた。今この瞬間、母は〝生〟を実感しているのだ。(つづく)

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