君を夏の日にたとえようか 第2回
私たちには正確な情報と知識があまりにも欠如していた
谷本先生が院長を務める施設は、この街の有名な大通りに面していて、街路樹が鬱蒼(うっそう)と繁っている。街路樹というよりは、大通りの両サイドに設けられた公園の茂み、いや杜(もり)というべきか。その施設の公園に面した側は、全面がガラス張りになっていて、谷本先生を待っている我々が腰かけている3階からも、目の高さに風にそよぐ樹木の葉が見える。私たち夫婦は会話もなく、そのそよぎを茫然(ぼうぜん)と眺めていた。
「胸にがんがあるということも、考えようですよ」と、谷本先生は静かに言われた。
「薬が効いていることを、自分たちで触って実感できます。ああ、また、がんが少し元気になって来たな、ということもわかるでしょ? 考え方を変えないといけません。山崎先生が言われたように、奥様のがんは全身疾患になったのです。
乳がんは、薬がよく効きます。奥様の場合は、ホルモン薬だって効いてくれるはずです。がんは、何が何でも切り取ってしまわないといけない、という発想を変えざるを得ないんです。先生もおわかりでしょ? 転移したがんを切り取るわけにはいかないじゃないですか。それに、もう、済んでしまったことを後悔しても始まらない」
「乳がんの薬は、世界中の研究者がしのぎを削って新薬の開発が盛んで、新しく期待できる薬が日進月歩に登場します」
この言葉は、多くの医者から異口同音に告げられた。最初は、単なる慰めにしか聞こえなかったが、事実だった。有望な薬が、毎年のように登場していることは、のちに乳がんのことを勉強するようになって実感した。希望はあるのだ。
「山崎先生のところの病院に何かケチをつけるとしたら、患者が多すぎて忙し過ぎるということです」と、谷本先生は言われた。
「医者はたくさんの患者さんを診なくてはいけません。治療も画一的になりがちです。効率が大切ですからね。多くの患者さんの命を助けようとすれば、のんびりぼやぼやしてはおられないから、1人ひとりのことを事細かには覚えてはおれない。患者さんは自分の病気のことをしっかり勉強して、そこのところを補っていかなくてはいけない。〝自分の命は自分で守るんだ〟くらいの気概でね。医者のちょっと抜かしたところを、自分たちでチェックして……」
「東京の築地にある国立がん研究センター中央病院に乳がんの化学療法専門の先生がおられます。私の知己の先生で、まだ若く、これからの日本のがん治療を中心になって担っていく人物と目されています。その先生にセカンドオピニオンを聞きに行かれると良いと思います。行かれるとき、私からも先生に電話を入れて、よろしくとお願いさせていただきます」
私たちの気持ちは、少し落ち着きを取り戻し始めていた。谷本先生には、先々まで適切なタイミングで貴重なアドバイスをいただくことになる。恭子の命を短くしかねない芽を早いうちに摘み取ることも、実際にしていただくことになった。山崎先生の言われたことと、谷本先生が言われたことが、本質的には同じであることも、のちに勉強をして知ることになる。私たちには、正確な情報と知識があまりにも欠如していた。
「先生のお話をお伺いして、勇気が湧いて、安心致しました。私、一生懸命勉強します。治療だって、積極的に受けます」
これが、恭子の物の言い方だった。この絶望の淵に突き落とされた状況でも、恭子は冷静で、他人に対する礼儀と感謝を忘れない。正しく、控えめに生きる。それが、恭子の生き方だった。
「がんばらなくて、いいから」

山崎先生から、ステージIVの乳がんの治療の目的は、延命とQOLを保つことだと告げられた日の夕刻。何を食べたかもわからないながら、きちんと夕食を済ませて、恭子は取り込んだ洗濯物をたたんで、和室の箪笥の引き出しに仕分けしていた。
何気なく私が覗くと、恭子がへたりこんで引き出しにすがりながら、「私、もうがんばれない」と言う。頭を、いやいやするように左右に振りながら、「去年の甲状腺がんの手術はなんだったんだろう? もういや、いや。もうがんばれない」
私は、あわてて駆け寄って、恭子をきつく抱きしめた。「いいよ、いいよ。がんばらなくったって、いいから」
頭をさすりながら、「恭子はがんばらなくていいんだよ。パパがずっと一緒にいるんだから、何の心配もない。パパがちゃんとするから。恭子は1人じゃないんだよ。パパがいつだっているんだから。がんばらなくていい。がんばらなくていいよ……」
恭子が、自分の病のことを悲観して取り乱すということはなかった。泣き叫んだり、大声を出したりしたことはない。投げやりになったり、絶望したりすることすらなかった。恭子は、どこか悟ったような――、違うな、言葉が違う。悟りではなく、何だろう? 路傍の石のように、密やかだった。しかし、決して厭世的(えんせいてき)というんじゃない。いつも、子どもたちのことや親たちの心配をして、自分のことは二の次だった。
猛烈な勢いで乳がんの勉強を始めた

山崎先生から渡された、例の治験の書類に必死で目を通した。わかりにくいところを病院に問い合わせてみたが、きちんと説明してくれるには、その病院の医者たちは忙し過ぎた。満足な説明は得られなかった。医者が電話口に出てくることは金輪際(こんりんざい)なかった。取り次ぐ看護師は、「今度の予約の日に説明するからと先生が言っておられます」と繰り返すばかりだった。
治験の取りまとめ役に名を連ねている国立大学の医師のうちで地理的に比較的近い大学を選んで――なぜ、そうしたかは覚えていない。いざとなったらその大学を訪ねて納得のいく説明を受けに行くつもりがあったのかも知れない――、電話を掛けてみた。
担当の医者は、診療の合間を縫って電話で丁寧に説明してくれたが、その治験が安全で治療を受けるうえで不利になることはないと力説するばかりだった。治験に参加させようと誘導していることが窺(うかが)われた。なるべくたくさんの症例の参加を得て、きちんとした結果を出したいという、その医者の立場は理解できたが、私たちがその博打(ばくち)に参加したいとはどうしても考えられなかった。どうみたって手術が効果的だと思われる状況になったら、病院を変えてもいいというくらいの一縷(いちる)の望みしか思い浮かばなかった。
私は猛烈な勢いで乳がんの勉強を始めた。手当たり次第に乳がん、それも再発・転移乳がんを主題とした成書をかき集めた。『乳がん診療ガイドライン』を取り寄せ、ポイントとなる部分については、根拠となる英語論文を国立国会図書館と私の卒業した大学の医学分館図書館から取り寄せて読み漁った。
恭子と結婚直後に渡米して、所属した研究所のラボのヘッドだった米国の科学者にも相談した。そこは歯科とは全く関係のない細胞増殖因子の研究を柱とする細胞科学研究所だった。彼はボストンにあるハーバード大学医学部の関連医療機関の1つであるDana-Farber Cancer Institute(ダナファーバーがん研究所)の乳がんの専門医を紹介してくれた。私はその女性医師とメールのやり取りを行なった。そうして、こちらの担当医である山崎先生と恭子の治療についての意見交換をしても良いとまで言ってくれた。
9月14日。恭子と『マダム・イン・ニューヨーク』という映画を観る。
私たちは残された時間があまりないかのように、私の仕事のとき以外は一緒に時を過ごした。美味しいものを一緒にたくさん食べて、合唱の練習に積極的に参加した。合唱は2人共通の趣味で、練習が白熱するとすべてを忘れられた。美しいハーモニーが鳴ったときには2人とも恍惚として生きる喜びを実感することができた。常に一緒にいて、苦しみも喜びも2人で分け合う覚悟だった。
「パパがこんなに優しくしてくれるんだったら、私、早くがんになればよかった」と恭子が冗談まじりに言ったことがあった。(つづく)