君を夏の日にたとえようか 第5回
家族はありがたい
私たちはタキソテールの副作用がどのように現れてくるか、固唾(かたず)を呑んでピリピリと身を固くして、待ち構えている。初めては、五里霧中の手探り。不安が募る。一般的な情報は勿論参考にはなるが、恭子にどのように現れてくるかは予測できないことだ。
12月30日(7日目)。いつの間にか暮れも押し詰まってきていた。長男も帰省してくる。恭子が自分の転移性乳がんのことを子どもたちにきちんと話したいと言っていたので、海の眺めがいいホテルを予約しておいた。久しぶりに家族4人が勢ぞろいしてホテルの眺望の素晴らしいレストランでの夕食の後、私たちの部屋で子どもたちに恭子の乳がんの話をする。
最初に、私がいきなり、「心配いらない、ママの乳がんは抗がん薬の治療がよく効いて、99.64%が消えて元の大きさの300分の1になっているんだよ」などと、乳がんのサブタイプの話も交えて説明。すると、「パパの説明はいきなり過ぎてよくわからない。専門的な言葉も説明してくれながらでないと、意味が十分理解できない。順番に状況を説明してくれないと……」と、主に次男からブーイング。結局、いつものように恭子自身が順番にきちんと説明することになる。
子どもたちは冷静に、そして真剣に受け止めてくれた。それがとても嬉しくて、心強かったと恭子がのちに語った。恭子の乳がんとの闘病チームは、これまでの私と2人の奮闘から4人になったわけで本当に心強い。家族はありがたい。
夕食のときに飲んだお酒の酔いの回った私がいびきをかいて眠っている傍で、3人で12時ころまで話が盛り上がったらしい。お陰で恭子は嬉しくて興奮して、よく眠れなかったという。
「少し頭痛がして、味がなかったのは悲しかったけれど、なんとか元気になって子どもたちと食事したり話したりできて、セーフだった」と、恭子が胸をなでおろしていた。
12月31日(8日目)。大晦日。中学から陸上一筋の次男がその関係で翌日の元旦には学校に戻るというので、夕飯におせち料理を食べて、年越し蕎麦(そば)、紅白。毎年と変わりない晦日だ。子どもたちとワイワイ言いながら、「今年の紅白は面白いね」「やっぱり子どもはいいなあ」と恭子がはしゃいでいる。
恭子が生き延びてくれるという確信は揺るがない

2015年1月1日(9日目)。タキソテール投与から9日目、元旦は大雪になった。
この年は、私たちには大切な年になった。たびたび森に遊び、風薫るなかでランチ。午後の柔らかな日差しの注ぐ我が家の庭で、しばしばお茶を楽しみ、大いに歌い、大いに食し、友と語らい、芸術に触れ、映画を楽しみ、子どもたちの活躍に駆けつけ、旅をし、どこに行くのも2人、密(ひそ)やかではあるが幸福に満ちた日々を過ごした。
人生の印象は決して悪いものではなかった。恭子は幸運なロングタームとして生き延びてくれるという私の確信は、さまざまな事が起こっても揺るぎはしなかった。
次男が大学に帰って行った。恭子は昼寝をする。少しだるくて、口が苦く、嘔気があるがだいぶんよくなってきた。口角が切れたというので、抗真菌薬を試す。

1月2日(10日目)。胃のむかつきは鉄剤のせいかもしれないと考えて、胃薬を一緒に服用することにする。やはり雪が酷く、次の日からの四国への帰省は中止する。体調が十全とはいえない恭子はホッとしたと言っている。夜は沢山食べられて、下痢気味だがよいお通じがあった。
1月3日(11日目)。嘔気がだいぶん治まる。味は苦い。恭子はしっかり昼寝をする。
1月4日(12日目)。「かなり太った」と恭子。吐き気はあるがお好み焼き1枚をペロリと平らげる。「昼ちょっと出かけただけで疲れた、四国に無理をして帰らなくて良かった」と。「口角が切れて、口中がネバネバしている」という。恭子はぐっすりと昼寝をした。楽しいお正月だったと嬉しそうだ。長男が明日帰る予定。
1月5日(13日目)。長男が学校に帰って行った。子どもたちはそれぞれの居るべき場所に戻って行ったのだ。恭子が口を酸っぱくして繰り返す「自分のなすべきことをしなさい」という言葉に従って。
買い物、布団干し、洗濯と、午前中に動いて疲れた恭子は30分ばかり昼寝をした。砂をかむような苦みが薄れてきたらしい。
夜、帽子ウィッグを洗いながら、「もう1つ必要かも」というので、「何個でも買えばいいよ、いろいろな髪の長さのものを使いわけてお洒落をしないと」と私が応える。
気を緩めている間に左腕のリンパ浮腫が進んでしまって、肘(ひじ)の下まで腫れていると、あわててドレナージをしている。見たところではわからない。触ってみればわかるのだろうが、恭子は触らせようとしない。
次回のタキソテールの点滴のときには、痛みがかなり長引くので痛み止めを2週間分は出してもらおう。鉄剤には胃薬もつけてもらおうと、工夫に余念がない。
音楽三昧の楽しい時間
1月10日(18日目)。体重が少し下がって、元の体重に落ち着いてきたと嬉しそうだ。
「吐き気――あまりなし。5日目くらいからむかむか。19日目からパパがプロトンポンプインヒビター(PPI:胃酸分泌抑制薬)を朝飲ませてくれる――次回は胃薬を病院から出してもらおう。
痛み――4から7日目がピーク。頭痛(鼻の奥がとくにもやっと痛い)はずっと。ピークには関節痛と筋肉痛でかなりつらい→痛み止めの強いのを出してもらおう。鼻の奥――粘膜に作用――疲れると痛い。
味――5日目くらいから口乾く。12日目くらいから口角切れて痛い(15日目くらいまで)味が苦い、砂をかむよう(5日目くらいから、2週間目くらいで薄れる)。
浮腫――10日目くらいから体重一気に増える。次の日に左腕浮腫あり、ドレナージ。夜、足も少しむくむ。16日目には落ち着く(一時的なものかも――体重、足の太さをチェックし気をつけること!)。17日目、夜にはまた浮腫、朝はなし。1週から10日くらいで体重も戻る。
全体にピークは4日目から1週目くらいだが、ダラダラと続く痛み、浮腫の心配! →次回も手・足指を冷やしてもらうこと!」(恭子の闘病記録)
1月11日。正午から1時間は女声コーラスの練習。男声はおっとりのんびりずぼらだから、女声のように頑張って練習しない。1時から4時までが全体の練習。といっても途中の小1時間は楽しいお茶とおしゃべりの時間、高嶋邸での穏やかな時間。4時からはリコーダーの練習を小1時間。恭子はリコーダー演奏には参加していないので、高嶋先生の奥様とおしゃべりしてリコーダーを聴きながら待っていてくれる。しめて5時間に及ぶ音楽三昧の楽しい時間だ。
恭子はさぞ疲れたに違いない。帰りの車中で、楽しかったねと言ったかと思うと、すぐにスヤスヤと寝息をたてながら舟を漕いでいる。
1月12日。やはり正午から女声練習。4時までの全体練習。
「これがあるからつらいことも乗り越えられるよね。合唱っていいなあ。メンバーもみなさん優しいし」と恭子が言う。
この連休は合唱三昧。私たちの闘病を支えてくれる頼みの綱なのだ。音楽に浸り、没頭して、その甘美な世界にのめり込んでしまうとすべてが癒されるようだ。(つづく)