君を夏の日にたとえようか 第10回
ごめんよ。日帰りはきつかったね
7月10日。山崎先生の診察。骨シンチの結果、骨転移は認められない。制御されている。
「ホルモン薬とビスホスホネートを継続するが、副作用が強ければホルモン薬を変更してもよい」と言われたらしい。やはり、ホルモン薬の副作用も患者にはつらいことが多いのだ。
「急に暑くなってびっくりした。寝巻も夏用でいいかもしれないね」と恭子。
足が少しむくんでいる。夜中に2度、大量の尿が出たそうで、ホッとしている。浮腫と尿の出方には本当に神経質になっていて、脳転移がどこかに吹っ飛んでいる。
白いオシロイバナを活ける。これも一日花。庭にある2つ目のラベンダーの花も咲き始め、花穂を切って投げ活ける。
「久しぶりに飲んだ薬のせいか、昨日は1日尿がよく出た」と喜んでいる。足のむくみも少し取れた感じがしているらしい。
「だるい1日でごろごろ寝ていたの。体力のなさを痛感する……」
「メチャ暑い1日! しっかり水分を摂らないと! 関節がギシギシ。手の力が入らない。ここ1週間ほど、身体中がかゆい」(恭子の闘病記録)
7月19日。午後、合唱団の練習に参加。命の綱。
翌日の日曜日、公共交通機関を使って日帰りで四国へ。恭子が私の両親に、野菜たっぷり具だくさんのぶっかけうどんを作ってくれる。保冷バックに材料を入れて持ち帰ったものだ。父も透析をしている母も、自分たちの体の不具合を訴える愚痴ばかりが口をついて出てくる。久しぶりの子どもたちの帰郷に甘えも出ているのだろう。「恭子のことを思えば、もういい歳だし、そのくらい我慢しなさいよ」と言いたくなるのをぐっと堪える。
両親の家で、恭子の左足のくるぶしに水が溜まって腫れているのを見つけたが、実情を言えないのが苦しい。両親は暢気にまだ自分たちの話をしている。
「無理をしたからかね? 左足、左腕も浮腫がある」と恭子。ごめんよ。日帰りはきつかったね。両方の両親の暮らす町には僅か5時間しかいなかったのだから。
恭子は前向きでがんばり屋

長く楽しませてもらった紫陽花の花期もそろそろ終わり。今朝活けたのが最後の花かな?
疲れが残っているけど、音訳の友だちとランチをしてカラオケにも行ったらしい。「メチャ疲れたけど、楽しかった。Hちゃん、大変だけどがんばってる」と恭子。
しっかり遊びなさい、恭子。毎日を楽しまないとね。
7月22日。歯科医院の月に1度のミーティングにケーキと紅茶を持って来てくれる。
「なんとかハードな3~4日間を乗り切った!」と恭子。新しいビデオデッキが来る。
「長時間出かける前の日は入眠剤を飲んでしっかり寝る! 腫れたら、利尿剤を!」と恭子が自分に言い聞かせるように唱えている。
私はずっと入眠剤を欠かすことなく飲み続けている。
紫陽花に続いてオレガノの花も咲き乱れてきた感じで、活けるはしから小さな花がポロポロこぼれ落ちてしまう。長く楽しませてもらった。
「くるぶしの浮腫にもよい」と中国整体の中川先生に勧められて、恭子は足指のグーパー体操、つま先立ちの運動に精を出す。
「からだがずいぶん軽くなった。でも、1日だけ……」
7月26日。合唱団の練習に2人で参加。「浮腫‼」。恭子は浮腫のことが本当に気になって頭から離れない。尿量と排便(便秘がち)を気にしている。
「運動がよいようだ! 必ずやろう! ◎踏み台運動、10~15分 ◎テレビ体操毎日 ◎1日1回は外出」(恭子の闘病記録)
恭子はなんて前向きでがんばり屋なんだろう。この精神の健全さはどこから来るのだろうか?
「踏み台10分。関節痛はよくならない。浮腫もほんの少しマシだが、しつこい。味覚は塩味が? 口の中に灰汁が残っているような感じ、これもしつこい。手足の指の関節が痛い。リウマチみたいだ。タキソテールの副作用――浮腫、指の力入らず、爪の変形。フェマーラの副作用――関節痛、筋肉痛、発疹? かゆい」(恭子の闘病記録)
8月6日。夕方、仕事を早めに切り上げて2人で国連合唱団の演奏会に行った。おトキさんは貫禄。アミャンゴ、指揮者の大谷研二先生も出演された。国連合唱団のメンバーの大らかさの伝わってくるような、多彩な肩肘張らない楽しい演奏会だった。
中国整体の中川先生が体操はいいと言われたらしい。先生が施術している間中、女性2人大笑いしながらの楽しい時間らしい。
「病気とうまくつきあっていく、という姿勢。これは本当にむずかしい。心の持ちようがむずかしいが、明るい気持ちでいること、笑っていること、楽しいことをすること、これは大事! そういうことから始めよう。正のオーラがでるように!」(恭子の闘病記録)
ご褒美の休みを兼ねた帰省だったのだが
至極当たり前のことなのだが、やはり恭子だってどうしても身構えて心を開けない反応を示してしまう生身の人間の部分を持っている。
どこの家にだってありがちなことだし、私の偏見や先入観や鈍感さがちょっと恭子らしくない反応や行動を惹起させているのかも知れないのだが、子どもたちが帰省したり、四国の恭子の実家に私たちが帰省したりすると、恭子の心は微妙に私から離れて、お互いが不機嫌になってしまうことがある。
普段2人きりで寄り添って暮らしているのが、恭子に別に寄り添える相手が現れると、私からしばし離れてある距離を置こうとすることがある。これはあながち悪いことではなくて、むしろ普段べったり支えあっている心に、言ってみれば精神的な休養みたいな風通しをよくするための知恵なのかも知れない。だから、盆正月は私が不機嫌だと恭子が口にすることがあるし、子どもや両親が現れると恭子は強気になって、私の至らなさを揶揄(やゆ)することがある。
8月14日から長男も伴って2泊3日で四国に帰省する。私たち夫婦は同じ町の同じ高校の同級生だから、両方の両親も同じ町で暮らしている。恭子は実の親たちとは打ち解けた穏やかな明るい会話を交わし、私の両親とはどこにでもある嫁と舅、姑の日常的な会話を交わした。
私たちが非日常を生きていることは、恭子の希望で親たちには伝えていない。つまり、脳転移のことを親たちは知らない。乳がんは落ち着いていると思っているのだ。恭子が乳がんのさまざまな治療による副作用に苦しんでいることも知らない。
両親たちは暢気な日常的な会話で恭子に迫ってくる。その結果、恭子は不機嫌になり私たち夫婦の会話も途絶えがちになってしまう。長男が緩衝材になってくれているのがせめてもの救いであった。
親元で1泊しかせず、帰路の小さな町のペンションで1泊するのを、親たちは首を傾げて納得のいかない風だった。それは当然のことだろう。親としては途中の町で1泊するくらいなら、もう1日ゆっくりすればいいのにと考えるだろう。恭子の闘病をねぎらって、水入らずでゆっくりするつもりで計画したことだった。最初からご褒美の休みを兼ねた帰省だったのだ。
残念ながらペンションでの休暇は、ギクシャクした夫婦関係の延長になってしまった。まるでペンションなんかに泊まるくらいなら親元にもう1日いてあげたらよかったのにと、恭子と長男から責められているような感じだった。長男がいてくれなかったら、休暇はもっと悲惨な結末になっていたと思う。何もない山奥の小さなペンションでの一夜はそれなりに、自然の中で羽を休めることはできたのだけれど……。(つづく)