君を夏の日にたとえようか 第15回
「水頭症です。時間の猶予はあまりありません」
「水頭症です」と谷本先生は、恭子の脳の造影MRIを緊急に撮って、駆けつけた私と戸惑うばかりの恭子に説明してくれた。
「脳脊髄液が逃げ場を失って脳圧が上がり、脳が頭蓋骨に向けて押しつぶされているんです。だから、奥様は、一時的に認知症のようになっておられる。細い管を側脳室に差し込んで、皮膚の下を這わせてお腹の中に誘導し脊髄液を流して、脳圧を下げる『V-Pシャント術』という脳外科的な手術が必要です。大きな手術ではありませんよ。しかし、なるべく早くしないといけない。時間の猶予はあまりありません」
先生は私たちの目の前ですぐに、山崎先生の乳腺外科と、同じ病院内の脳外科の部長にそれぞれ電話を入れて、恭子の所見を伝えてくれた。これが明日の土曜日だったら病院は休診で連絡がつかない。綱渡りのようなタイミングだった。金曜日に谷本先生に診てもらえて、不幸中の幸いと思いながらも、「脳圧亢進」という四文字が私の脳裏を不吉によぎっていた。なぜ、脳圧が上がってきたか、その原因がどのようなものであっても、深刻な問題を孕(はら)んでいることに間違いない。
翌2月20日の土曜日には、少し家からは距離のある蕎麦を一番の売りものにしている店で夕食をとった。歯ごたえのある美味しい十割蕎麦だった。恭子もおいしそうに食べた。私が夕食に行くときは、それは必ず晩酌を楽しみにしてということが目的の半分だったから、帰りは恭子に車を運転してもらうのが常だった。しかし、その晩はさすがに恭子に運転させられる状況ではなかった。私は飲酒を諦めてアルコールフリーのビールを飲んだ。恭子は憔悴(しょうすい)していた。
2月21日。日曜日、恭子は歌いに行くと言ってきかなかった。私も歌いたいのが本音だったから、恭子の意思を尊重することにした。家にいて休んだほうがよさそうに見えたけれど、恭子は化粧をしていると次第にシャキッとしてきた。
合唱の練習中もちらちら恭子を観察しながら、あまりにしんどそうならいつでも中座するつもりでいた。恭子はいつものように歌っていたが、少し化粧ののりが悪く能面のようにも見えた。最後まで歌の練習をして、その後のリコーダーの練習が始まる前に私は帰ろうかと恭子にいってみたが、「大丈夫、練習して」と応えた。高嶋先生の奥様に「少しふらついていますからお願いします」と耳打ちして介抱をお願いした。奥様は確か看護学校を卒業されていたはずだった。
帰り際に、高嶋邸の長い階段を下りようとして1段目を踏み外し恭子はストンと尻餅をついた。後ろを歩いていた女性メンバーが驚いて助け起こそうとすると、「いつも、こんなにそそっかしいのよ」と笑いながら恭子がふざけて言っていた。私は腕を支えながら、車まで恭子を引きずるようにして連れて行った。武田さんが後部座席に同乗していたので、普段通りの四方山話には恭子もときどき参加して口をはさんでいた。途中で武田さんを降ろした途端「疲れたー」といって、助手席の恭子はあっという間に深い眠りに落ちていった。
家に辿り着くと、疲労困憊した恭子は崩れるように居間に入って、そこに倒れ込んだまま動こうとしなかった。そして昏々(こんこん)と深い眠りに落ちていった。暫く寝かせたままにしておいて私は夕飯の支度を整えた。
7時過ぎに声を掛けて食事を促すのだが、起きようとしない。今日は夕飯はいらないという。その応答や眠り方に異常なものを感じた私は、この調子で恭子を家に1人残して明日から仕事に行くわけにはいかないだろうと確信した。それくらい、恭子の眠り方や受け答えは、尋常ならざるものがあった。長男に応援を求める電話をすると、卒業制作展の後片付けがあるから今日は無理だが、明日には何とか帰れるといってくれた。
髄膜播種を疑われる所見が
2月22日。月曜日の朝、私はいつでも入院できるように、恭子に必要なものを尋ねながら準備をした。私は気もそぞろに仕事をしながら職場から恭子に頻繁に電話をして、病院から入院を指示する電話がないかと確かめるのだが、昼休みになってもなんの連絡もない。恭子は傾眠傾向で、ろれつが回らない。
業を煮やした私は乳腺外科の外来に事情を説明して、早く入院させてほしいと訴えた。電話に出た看護師は先生に尋ねて必ず連絡をくれると約束してくれた。長い午後であった。
診療に身が入らない。午後5時を過ぎた。公立病院はかっちりと時間厳守で受付を終了してしまう。看護師だって5時で仕事を終えるだろうと、私は打ちのめされたような気分だった。重苦しい気分のまま診療を続けていると、午後6時に最前の看護師から電話が入った。きちんと約束を守って連絡をくれて、救われたような気分になった。
ところが、電話の内容は耳を疑うようなものであった。
「25日の木曜日に、乳腺外科と脳神経外科の外来を受診してください。それから、その後の方針を打合せすることになります」
愕然(がくぜん)とした。先週の金曜日に谷本先生から、わざわざ2つの科の責任ある立場の医者に連絡をしてもらって早急な対応の必要性を伝えてもらったのに、この対応はなんということか? あと3日間も恭子は待てるのだろうか? しかも、3日後に入院というのではなく、外来受診を促されるとは。私は、看護師の責任感のある報告に謝意を示しながらも、暗澹(あんたん)たる気分であった。
さらに、谷本先生からのメールが追い打ちをかけて、私を奈落の底に突き落とした。
「MRIをよく見直してみると、残念なことに小脳の周囲、テント下を中心に髄膜播種の疑われる所見が認められます」と。
谷本先生が、「残念なことに」などという悲観的なことばを発せられたことは、脳転移が見つかったりしたこれまでにもないことであった。私にだって髄膜播種が何を意味するかはわかっていた。死刑宣告であった。それも、期限の限られた。
しかし、私は播種がテント下に限定されたものであることを信じることにして、その問題はひとまず保留にするよりなかった。先生もそういう表現をされているのだから。
「救急車を呼ぼう」

目下、恭子の脳圧亢進症状は予断を許さない緊急の状況になりつつあることは明らかだったのだ。京都から帰省した長男を指さして私が「これはだれ?」と尋ねると、「パパ」と答えた。私を指さして「これは?」と聞くと、やはり「パパ」と答えた……。
「こっちもパパで、あっちもパパなの?」と長男が尋ねると、「そう」と恭子は何食わぬ顔で答えた。「そうか……」。赤子をあやすような気分だった。長男も冷静に受け止めてくれている。長男が買ってきてくれたふなっしーのぬいぐるみは「ふなっしー」と答えた。
2月23日、火曜日。私が昼休憩に家にもどってみると、長男がそうとうに困惑した顔で、私が帰ってくれてホッとしたと顔に書いてある。「ママが失禁したんだ」と長男が小声で私に告げた。「ママはどこにいるの?」「トイレの中……」
トイレのドアは開け放たれていた。私が覗き込むと恭子は無表情にぽつねんと便器に座り込んでいる。「ママ、大丈夫だよ」と、私は便器の外に転がっている便の塊を拾い上げては便器に放り込んだ。恭子はたいてい便秘気味だったことが幸いした。コロコロした塊の便だったから。パンツは汚れていないかと調べながら、「大丈夫、上手にうんちできたんだよ」と恭子を立たせて、下着とパンツをひっぱり上げた。
恭子は大儀そうに、居間の絨毯の上に倒れ込んで目を閉じた。と、暫くして、恭子が口元を左掌で抑えた。私がとっさに「吐きそう?」と尋ねると、頷く。準備しておいた洗面器を顎の下に近づける。間髪入れずに恭子が激しくもどし始めた。暫く嘔吐が続いた。長男が息をのみながら、「朝もトイレで吐いていたみたい」という。私は大きく頷きながら、恭子を凝視していた。脳圧がかなり上がってきているのだ。
さんざん吐いた挙句、恭子はその場に崩れ落ちた。何を聞いても返事をしようともしない。呼吸はちゃんとしている。しかし、応答はない。からだをゆすっても、目を開けようともしない。私は、緊急事態だと判断した。
長男と2人で、倒れ込んだままの恭子を自分たちで車に乗せて病院に連れていくことが可能だろうかと考えた。無理だ。「救急車を呼ぼう」と長男に同意を求めるように伝えた。緊張している。ママの入院準備はしてあるからと、持参すべき荷物の指示をしながら、生まれて初めて119番に電話をして救急車の出動を依頼した。
2人で救急車に乗り込もうと私がいうと、長男は怯(ひる)んだ。無理もない。私も実は怖気づいていた。狭い救急車に押し込まれて冷静さを保てるだろうか、と私でさえ不安な思いでいたのだ。
「何かあったら、すぐに家に戻れるように、僕は車を運転して救急車についていくよ」と長男。理屈だ。「わかった。パパ1人が救急車に乗ろう」(つづく)