君を夏の日にたとえようか 第16回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2021年4月
更新:2021年4月


余命は「およそ1カ月だろう」と

長男は毎日30分ほど車を運転して、両親を恭子の見舞いに連れて行ってくれた。恭子の修羅場を経験した後の長男は別人のようであった。肝が据わって、頼もしかった。26日に一般病棟に移った恭子は足元こそまだおぼつかなかったが、認知機能は日を追って回復していった。

嬉しかった。あのまま、正常なやり取りができないままになってしまったらどうしよう、まだまだ話しておきたいことが山ほどあるのにという私の心配はひとまず回避されたのだ。

両親は、恭子の様子がさほど深刻でないかのような受け止め方をしているのがわかった。それはそのほうが両親にとっていいのではないかと思った。事の重大な髄膜播種が見つかったことは、子どもたちにだけ伝えた。

いきなりの死刑宣告は、これまでの経緯を恭子からも私からもほとんど説明していない両親にとってはむご過ぎる。これまで、自分の病状や経過をすべて承知していた恭子にも、勿論、髄膜播種ということばを伝えるつもりはなかった。インターネットで調べれば、髄膜播種が何を意味するかはすぐにわかってしまうのだから。

「脳脊髄液のなかの細胞は、悪性だった」と、手術から6日後に三島先生がわざわざ私の仕事場に電話をかけてきてくれた。十中八九はそうだろうと予想していたことだったが、やはりショックだった。

「正常細胞しか見つかりませんでしたと三島先生が言ってくれたら、すべては何かの間違いであったのだと、みんなでほっと胸をなでおろすことができるかもしれない」と私は一縷の望みを捨てていなかったのだ。家族としては当たり前のことだと思う。そう簡単に諦めきれるものではない。ステージⅣの乳がんの生存曲線が、2年くらいで急速に生存率ゼロに近づいても、全ての患者本人や家族は細々と5年、10年と延びる限りなくゼロに近い生存曲線、ロングタームのなかに自分たちは入っているのだと考えるものだ。自分たちは特別に幸運な例外の患者なのだと――。

V-Pシャントを中継するシリコンゴムのようなものでできた空洞が恭子の頭蓋骨に開けられた穴の外側、頭皮の直下に埋め込まれている。オンマヤリザーバーである。ここから薬剤を頭蓋内に注入することができるのを私は調べて知っていた。メソトレキセート(MTX)を投与してはどうかという質問を、谷本先生と川田先生に投げかけてみた。谷本先生は「白質変性の可能性が高い割には、効果はさほどでない」と、すぐに否定された。日赤の脳外科部長に相談してくれた川田先生も、やはり否定的な見解を伝えてくれた。

3月2日。手術から7日後。三島先生が私だけを別室に呼んで、恭子の余命は「およそ1カ月だろう」と告げた。私は比較的冷静なような気分で、その宣告を聞いていた。あらかじめ髄膜播種については、文献を取り寄せて下調べをしておいたのだ。

乳腺外科の山崎先生からも、外来が終わったら話したいことがあるので、待合室で待っていてほしいという連絡が入った。珍しいことだ。そうして、山崎先生からも余命は1カ月だろうと説明があった。口裏を合わせているのだとすぐに思った。先生は、「積極的に対応するとすれば、タキサン系とアバスチン(一般名ベバシズマブ)だろう」と言われた。私は、暫く考えてから、恭子はタキサン系の副作用をとても嫌っていたので、「タキサン系は嫌だと思う」と答えた。

先生は何もしないというのも本人が気にするから、「このままTS-1を続けるのが自分もいいと思う」と言われた。TS-1続行が決まった。恭子になんの相談もせず、そのことを決めてしまったのだ。2人の先生からの説明は、TS-1を続けましょうという趣旨だったと、恭子とみんなに私は伝えた。

家に帰って、2人の先生からの余命宣告の痛みがジャブのように次第に効いてきた。私は深い悲しみと絶望感に打ちのめされた。そして、激しい怒りがこみ上げてきて、私の親友の岡に電話をした。

「なんで、患者の命があと1カ月だなんて言うんだろう。1カ月の間に僕に何ができると思う?」

「1カ月で恭子に何をしてやれる?」

「僕は、これから何をすればいいんだろう?」

「何から手をつければいいんだろう?」

私は追い込まれていた。岡は、終始無言で私の話に耳を傾け続けてくれた。

川田先生は、「乳がんの髄膜播種なら7カ月は持つでしょう」と、慰めて(?)くれた。谷本先生は、「残念ながら、1年は難しいと思います」と言われた。いずれにしても、これまでに経験したことのない〝定められた死〟の宣告に違いはなかった。

恭子にすべてを話してやるべきだった

これまでも、さまざまな困難が恭子に降りかかってきたが、それに対抗する医学的手段があって、上手くやればなんとかがんの攻撃をかわして、生き延びていけるだろうという希望を持ちながら2人でやってきた。これからは違う。抵抗する手段はほとんどなくて、どうやって恭子を支えていけばよいかと考えると途方に暮れるばかりだった。それにもまして、私を苦しめたのはこの窮地を恭子にも、両親にも、こと余命については子どもたちにでさえ伝えられず、1人で抱え込まざるを得ないということだった。

それは、間違いだった。本当は、恭子にすべてを話してやるべきだったのだ。そうして、自分がつらい治療に耐えて辛抱するのはここまでだという選択をさせてやるべきだったのだ。自分の生の終焉で最も大切にするもの、これだけは譲れない、これだけは言っておきたいということを聞いてやるべきだったのだ。

高嶋先生や、武田さんには余命についても聞いていただいた。

「先生方がもっと別の言い方をされてもよかっただろうかね」と、高嶋先生はやんわりと言われた。「あなた1人が抱えていては、潰れてしまうよ」と、武田さんには心配してもらった。

立ち雛

3月4日。入院から11日目、手術からは10日目に恭子は退院した。恭子が退院して最初にしたこと、それが一番気にかかっていて大事なことだと考えていたのだろう。「僕は明日にでも京都に帰りたい」と、長男から話を切り出した。恭子は直ぐに同意した。「あなたにとって今は大切なときよ。もう1年学校で頑張って何かを身につけるのか、就職するのか、京都に帰ってきちんと決めなさい」と。

「今の学校に残っても、自分が身につけられることはもうほとんどないだろう」と長男は答えた。「それなら、早く帰って事務の人とかに相談して就職先を決めないと。岐阜の興味のあった工房は、もうあまり脈はないのね?」「そうだと思う」と長男。

長男は最初に入った理学部の物理学科では、自分の本当に勉強したいことが見つけられずにもがき苦しんだ。そうして、伝統工芸を学ぶ学校に入りなおしたのだが、いまだに自分の向かうべき道を探しあぐねているように見えた。そのことを恭子は本当に心配していた。私も同じではあるが、恭子ほど決然とは諭してはやれなかった。私が要らぬ口をきいて、長男を何度も結果的に苦しめてきたからだ。

長男は恭子のことばを真摯に受けとめて、翌日京都に帰ると、さっそく就職活動をし、自分の意に沿う就職先を自ら決めた。それから、会社に近い新しい住まいへの引っ越しや身辺整理などを後輩たちの助けも得ながら精力的にこなして、およそ1カ月の間に一切親の援助なしに片づけて、新たな生活の基盤を整えて行った。

恭子の入院、手術、入院中の世話を経験する間に、長男はまるで人が違ったように肝の据わった力強くたくましい青年になって、社会人としてのスタートを切ることができた。私たちには金銭的な援助以外には、力になってやれる余裕がなかった。(つづく)

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