君を夏の日にたとえようか 第17回
恭子との最後の交わり
そのころ、居間の絨毯の上にホットカーペットを敷いて、こたつ布団で簡易の寝床をあつらえて、恭子は昼間のほとんどをそこで眠ったり、枕を重ねて横になったままでテレビやビデオを見たりしていた。
昼休みに私が家に戻ると、「恭子ちゃん」と言いながらその寝床に潜り込んで、恭子にからだをぴったりとくっつけて横になった。恭子は私の手を取って、お互いに腕を組んだり、手を握りしめたりした。私に足を絡ませて、口づけをすることもあった。そのころだった。私と恭子が肉体関係を久しぶりにもったのは。恭子の性器の粘膜は薬で傷めつけられて過敏になって、触ると痛がったから恭子にはつらい行為だったに違いない。それが、私と恭子の今生、最後の性交だった。
いつのころからだったか記憶が定かではないが、私たちは寝室を2階の和室から、1階の玄関わきの和室へと移動した。恭子が階段を上り降りするのが大変になったからだ。足元が、おぼつかない。私と朝食を摂り、私が仕事に出かけると、恭子は居間で横になって連続テレビ小説を見て、すぐにまた眠ってしまうらしい。
目が覚めたときに、Cメールをしてもらう約束にした。仕事をしながら、私は携帯電話をいつでも必ず身に着けておくようになった。チーンというCメールの入った報せが鳴ると、ああ、恭子はまだ生きている、とホッと胸をなでおろした。どうかして、恭子がCメールを忘れたりすると、しびれを切らして私のほうからCメールを送って、「起きた?」と。返事のくるのが長いこと。永遠のように長い。「忘れてた!」というメールが届けば、「おはよー」とハートの絵を入れて、返信。
3月24日、第1回目のタキソール+アバスチン治療。恭子は公共の乗り物での移動を希望したが、私が断固反対。「足元も、ふらついているのにダメだよ。駅の中は案外歩くんだから、タクシーにしてね」と。ほとんど床に伏しているような生活なのに、何かあるとパチッとスイッチが入って、恭子は俄然しっかりとふるまった。お見舞いの方があったりすると、「恭子さんどこが悪いの?」と驚かれるのが常だった。
今回の治療にしてもそうだった。家の前にタクシーを呼ぶのは、頻繁になるからはばかられるといってきかないから、私も7時には家を出て、近くにあるコンビニのタクシーの待機場所で恭子を落として、私はそのまま出勤した。ずっとタクシーの中から手を振り続ける恭子。
恭子に全てを告げる気にはなれない

乳腺外科での診察の後に、外来化学療法室で抗がん薬の点滴を受ける。
「3時間ほどかかるから疲れてリクライニングチェアのような治療台で爆睡したり、パズルを解いたり、文庫に目を通したりと、あわただしいけど案外のんきな治療なのよ」と恭子は言っていた。「でも、毎週となるときつい」とも……。
帰りは私が都合をつけて迎えに行く。Cメールのやり取りをしながら。
「今、病院に迎えに来たよ」
「ええ、まだ、あと小1時間はかかります。ごめんなさい」
「いいんだよ、ゆっくり待ってます」
「ああ、爆睡してたら、もう5分くらいになってます」
「了解」
「もう出ます」
治療室の外の待合場所で待っていると、メールの予告通り恭子が出てくる。顔を見ると安心して、いとおしくなる。タイトなパンツに黒にピンクの混じった可愛らしいズック、黒いリュックを背負って、ヘルメットに見えなくもないウィッグ用のニットの帽子を被って、なかなか勇ましくボーイッシュにも見える若々しい恭子が、なぜだかいつか観た映画のゴーストバスターを連想させる。
嫌々だろうに、私や子どもたちや親のために、頑張ってくれているのだ。限られた時間をこのような病院の中での治療に費やしていていいのだろうかという迷いは頭から離れない。治らないとわかっている治療は――、と言った恭子のことばを思い出す。
「昼も夜もいっぱい食べたけど、吐き気もなくてよかった」と布団に入りながら恭子が言ってくれた。ホッ! 恭子の腕をまさぐって、2人腕を組み合って眠りにつく。
翌日も「朝は眠くてたまらなかった」と、Cメールが来たのは11時前だった。昼休みに私が洗濯と買い物をして、午後は恭子が夕食の準備とアイロン掛けもしたらしい。
「少し疲れて、顔が火照る。37度1分。油断はダメ!」(恭子の闘病記録)
私は戸惑いながらも、恭子がいま通院している大病院に通えなくなることを想定した準備もしておいた。家に本当に近い場所に、脳神経外科と緩和ケアの病棟を兼ね備えた病院があったのだ。素人が考えたって、恭子の今の状態からすれば、ピッタリの病院ではないか。乳腺外科の山崎先生も快く紹介状を準備してくれると言ってくれた。
3月26日、土曜日。「朝、顔が少しむくむ。赤い火照り(昨日よりは少ないが)。朝眠い。午後、パパと洗車して和菓子屋でお饅頭を買って、街の港近くの公園にドライブ。ピクニック? 誰も居ない公園。短時間だが楽しかった。夜は近くのお兄ちゃんのお店のイタリアン。カルボナーラ、おいしかった」(恭子の闘病記録)
3月28日、その病院に初めて恭子と受診した。「何か急なことがあったときには安心できるからね」と恭子をやっと納得させて。脳神経外科と緩和ケアが専門でしかも家から歩いて5分ほどの近さにある。これ以上の条件のそろった病院はない。院長の中谷先生が主治医になってくださった。合唱団の高嶋先生から、今回もまた口添えをもらった。
「安心できるけど……」とは言いながら、恭子は「病院通いばっかり」と、ぽつりと言った。可哀想で仕方がないが、やむを得ない。つらい。最近は、恭子に本音を言わない隠し事ばかりだ。間違っているとはわかってはいるのだが、恭子にすべてを告げる気にはなれない。なれない……。
今回の治療は、当日は緊張もあってか、ステロイドが点滴に混ざっているせいか、むしろ元気そうだ。4日目あたりまで、顔のほてり、むくみ感、眠気(これは薬のせいか、脳病変のせいかよくわからない)、軽い吐き気(これも同様)を訴えた。
「副作用としては軽いほうかな?」私が、そんなことをつい口にすると、恭子は言った。「パパはがんじゃないからわからないよ。このくらいだから治療が楽とかは、思えない。どんな治療もそれぞれに特別なつらさがあるのよ」(つづく)