君を夏の日にたとえようか 第18回
恭子が生きていてくれてよかった

4月12日。午前を休診にして脳神経外科の三島先生の診察に同伴する。CT検査の結果V-Pシャントがうまく機能していて経過は上々のようだ。オンマヤリザーバーを押して調子の見方を教えてくださるが、恭子は決して私には触らせようとしない。
「パパは歯医者さんで、脳外科のお医者さんじゃないでしょ!」
「午後、さっちゃんと大しゃべくり! なんだかうれしい! 最近また腰が痛い。がん転移かな?」
「恭子、骨のことは全然気にしなくていいよ。ビスホスホネートがちゃんとブロックしてくれているから」と私。
大親友のさっちゃんと大しゃべくりした、と嬉しそうに話す恭子。私たち夫婦は30年足らず。さっちゃんとは40年来の親友だから、私の知らない恭子をさっちゃんは沢山知っているはずだ。もちろん、夫の私しか知らない恭子だっているのだけれど。
水頭症の手術が終わってすぐだったと思う。恭子に残された時間はあまり多くはないのだと、さっちゃんに電話で伝えてある。一番の親友が巡り巡って、いま同じ団地で暮らしているのは奇跡的な天恵としか言いようがない。
さっちゃんと4時間電話した。さっちゃんちに行って、1日過ごした。うちに、さっちゃんが昼のお弁当を持って来て、午前中からずっとおしゃべりしていた。と、さっちゃんは恭子のこころの支えであることは間違いない。有難いことだ。
4月16日の土曜日。恭子の闘病を支える私を、後方から支援して支えてくれている後輩の2人の親友、愛媛の岡と愛知の楠に来てもらって恭子と4人で食事をした。恭子に是非会わせておきたい私の友人だ。2人とも〝余命1カ月の話〟は心得ていた。
食材にこだわった日本料理屋が私の医院のすぐ側にあるのだが、知る人ぞ知る美味しい店で、週末はなかなか予約が取れないほど人気だ。素材にも器にも料理の盛りつけにも、もちろん味にも、さらには部屋の佇まいや、お客の部屋割りにまでこだわっている。
部屋は完全個室で、襖で隣り合った部屋では、子どもを含む家族連れや、会社の同僚の集まりなど、ワイワイ盛り上がりそうな客と、静かにゆっくりくつろぎたいお客を隣り合わせにしないような配慮までしてくれる。
男たち3人が昔話に花を咲かせるのを嬉しそうに眺めながら、恭子もしっかり料理を食べてくれた。私の大好きな白いブラウスにモスグリーンのカーディガンという格好の恭子の醸し出す雰囲気は、きらきらと輝く朝露に濡れたようにしっとりとして上品だった。少女のような初々しい美しさだった。
何をしゃべるにもにこにこと微笑みながら穏やかに照れくさそうに話す楠が、恭子を目の前にして告白する。
「僕ね、実は学生のころ恭子さんのファンだったんです」
私は何度か聞いている話だ。恭子にも話したことがある。恭子は、なぜか目の不自由な人に想い入れをもっているようで、50歳を過ぎて始めた音訳のボランティア同様に、大学のころは点字サークルに所属していた。我々は学部こそみな違ったが、同じ時期に同じ大学で学生時代を過ごした。楠も点字サークルにいて、そのころ恭子を見染めたらしい。「初めて園田さんと恭子さんが結婚されたと知ったとき、ああ、あの2人ならお似合いだなって思ったんです」と。
男たち3人はその晩の恭子の可憐さに参っていた(と、私は勝手に思っている)。恭子は朗らかで綺麗だった。「どこが病気なんですか? あんなに綺麗で、元気そうで、沢山食事も食べられて」と、2人は私に後で尋ねた。「あんなに素敵な人に悪い病気がついてしまって、その人を失ってしまうのだと思えば、園田さんの失望や無念さもよくわかります」とも言ってくれた。恭子が生きていてくれてよかった、とその夜はあらためて実感していた。水頭症で死なせなくて、その後に暫くの時間をもらってよかった。
自分が生きた証を残すために
私と子どもたちのためだけに懸命に家庭を守り生きてきた恭子が、2人の息子が家を離れた50歳を過ぎて動いた。自分の人生、自分のための時間、生きがい、自分が生きた証を残すための何かをしたいと考えたのではないかと思っている。それが音訳のボランティアだった。まさに、50の手習いだった。
何かを本気で始めたら中途半端は嫌な性分で、音訳の基礎を学ぶために県などの自治体が開いている講習会や講座に精力的に参加していた。私たちの住む街の音訳ボランティア団体を調べ、検討して、自分の所属したいグループを決めた。それは、街の広報を目の不自由な人のために音読してテープに吹き込むボランティア活動だった。
「目の不自由な方で広報を聞きたいという人には高齢の方が多いので、CDの扱いに不慣れだから、昔ながらのカセットテープにしているのよ」と言っていた。パソコンの特殊なソフトと音響に配慮した録音室のある街の施設は競争率が高いので、日曜日に出かけたりすることもあった。
舞台に立って、複数の人たちと分担しながら、社会に何かを問いかけるような思想性の高い本を読み聞かせる芝居のような活動にも参加したりした。各県に割り当てられる成書の音読ライブラリー作製にも参加していた。
翻ってみると、恭子は私と結婚する前にはとても精力的に、図書館の司書などいろいろな資格を取ったらしい。配属される学校まで決まっていて教育学部を卒業する間際に、小さいときに患っていた股関節の状態が思いのほか悪くて、教員のような立ち仕事はもってのほか、なるべく早く手術をしたほうがよいと診断されたのだ。教師になるための教育を受けて過ごした4年間は何だったのだろうと、打ちのめされたに違いない。絶望の淵に追いやられたろう。すごすごと親元に帰って、家庭教師をしながら過ごした何年間かは、本当に悔しくてつらかったろうと思う。
恭子は両親を深く敬愛していた。失望して帰省した娘のからだや将来のことを、毎晩毎晩、ひそひそと話し込んでいた両親のことを、恭子は幾度も感謝の念を示しながら私に話してくれた。
恭子は人間離れした人だった
その帰省の頃に知り合いになれたのが、これまた奇遇にも現在同じ団地に住んでいる親友の永井さんだった。永井さんとは私と恭子が結婚して子どもたちが小さいころにも、大学病院に近い同じ地区に住んで交流があった。小さな子育て奮闘の同志だった。
悪いことがあれば、よいことだってあった。恭子は股関節の手術を受けてから、やる気や前向きな気持ちを鼓舞して、さまざまな資格を取ったのだろう。教師の資格を取りながら生かせなかった口惜しさから、何かあったときに自立できるための使える資格を沢山頑張って取得したのだろう。
しかし、恭子はそんなことを自慢したり、人にひけらかすような人間ではない。取った資格は10を越えるとも20に近いとも聞いたようには思うけれど、詳細を並べ立てるようなことは、私にでさえついぞなかった。頑張り屋でありながら、控えめで、目だったり自慢したりするところは一切なくて、人間の出来としては私など足元にも及ばない。いや、人間離れしたところのある人だ。
恭子は本当に上手に取り繕った。だから、いろいろな友達や知人が尋ねてきても、病状がそんなに深刻なものと感じる人はいなかったと思う。いつもと同じように明朗でよくおしゃべりして、よく笑った。それは彼女にとってはとてつもなく体力を消耗する作業だったに違いない。頑張った翌日は、泥のように眠ったのだから。
私以外のすべての人たちに取り繕った。医者や看護師などの医療従事者にでさえ取り繕いをしたから、少なからず病状の判断に影響しただろうと思う。実の子どもたちにさえ、実の親にさえ、要らぬ心配をさせまいとして頑張ってふるまう場合が多々あった。おそらく、気づかないだけで、私に対しても上手に取り繕っている部分があったのかも知れない。それと本人自身も気がつかないうちに……。それも、恭子という人となりであった。(つづく)