君を夏の日にたとえようか 第19回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2021年7月
更新:2021年7月

第六章 水頭症・髄膜播種

15.終わりの日々

4月29日。私も休診日で、長男と3人の久しぶりの家族の生活。初月給で私に好物の焼酎と日本酒を買ってくれて、重いみやげを運んできてくれた。大切に呑んで、空き瓶も一生の宝物として大切にとっておかねばならない。恭子には、長男と2人して大好きなふなっしーグッズが後日届くらしい。恭子も楽しみにしている。

午前中に長男にジャンパーを買ってあげた。着て帰っていたものがところどころ傷んでいたから。午後、3人で川の字になって、お互いにちょっかいを出し合いながら、暫し昼寝。自分の優しい気持ちが自然となんのてらいもなく出せるところが長男のいいところでもあり、次男とは表現の仕方の最も違うところだ。次男も優しい繊細さを持っているが、その表し方は長男とは明らかに違うやり方をする。

午睡のあと近くのショッピングモールに3人で出かけた。長男は自分好みの服を物色して、私たちは恒例の歯科医院のスタッフ全員の今年度の誕生日プレゼントを決めて購入した。これが恭子と一緒にあつらえる最後の誕生日プレゼントになることはほぼ間違いないと思うと、私の胸中は穏やかではなかった。フードコートでフレッシュジュースを飲んで、恭子はすごく楽しいと言ってはしゃいでいた。

夕飯は3人で、例のおでん屋で食べた。そのときの話の中で、ひとり娘の恭子の実家の姓を継ぐことは、今はしたくないと長男が率直に伝えてくれた。以前、継いでもいいようなことを口にしていたことがあったが、現在は別に思うところがあるのだろう。それでいいと思う。恭子も長男の気持ちがわかってよかったと素直に言ってくれた。難しい話でみんなを悩ませて悪かったなあと、あとで恭子が語ってくれた。その代り、是非、新たなお墓を今私たちの住んでいる家の近くに作りたいと、自分の希望を恭子がはっきりと口にした。波紋を呼ぶような、立場によっては人を悩ませるかもしれないような事柄を、自分の希望であると明確に口にすることは珍しいことだ。何事にも他の人への配慮を優先する人だから。それには、深い訳があった。

治療は、間違いではなかったかも?

私たちの住んでいる街は新幹線の便も良くて、どこに住んでいても子や孫たちの墓参りがひどい負担にはならなくて済むだろうという思いがあって、近くに墓を立てて欲しいと言ったのだ。

しかし、自分たち夫婦の菩提を子孫にずっと弔ってほしいというのが一番の理由ではない。恭子は自分たちのことだけを考えるような人間ではない。恭子は13代も続いた古い墓をもった家に、ひとり娘、ひとりっ子として生まれてきたのだ。家の名前を残すことを残念ながら諦めても、自分の両親や先祖の眠る墓が四国にあったのでは、親戚や知る人の誰もいなくなる田舎町の墓参りがやがて途絶えてしまうのは、火を見るよりも明らかだと考えたのだ。自分の生まれ育った家の墓を、無縁仏にしてしまうことだけは絶対にしてはいけないと。

便利のよいところに墓を構えておけば、実家の両親やご先祖にも入る場所が確保できて、そののちの物事が穏便に進めば、私たちの子孫に、恭子自身の実家のご先祖も含めてお参りを続けてもらえるのではないかというのが本当の理由だったのだ。実家の墓を無縁仏にしないために、恭子が考えた末の結論だった。しかも、しっかりした永代供養がいいというのが恭子の考えだった。

4月30日、土曜日。午前中を長男と恭子は、ごろごろして過ごしたらしい。京みやげの金平糖を嬉しそうに食べながら、ふなっしーグッズの到着も心待ちにして。

翌日の日曜日の夕方、長男は帰って行った。駅まで長男を送る車中で、私がペチャクチャしゃべっていると、「パパ、黙って」と涙声でいう。窓の外を見ながら長男はむせび泣いていた。これが母親との今生の別れになるかも知れないと、腹をくくろうとしていたのだ。

「息子はいいなあ! 本当に楽しい数日だった」と恭子がしみじみと語ってくれた。つらくてしんどい治療を頑張ってくれているお陰で、命が延びて、こんな素敵な時間が持ててよかった。有難う、恭子。治療は、間違いではなかったかも?

数枚の得難い写真が残った

長男の帰った翌日は、私は仕事。恭子は疲れた様子で、晩御飯が済むとすぐ横になってしまった。明日は、恭子の両親が顔を見にやって来る。

5月3日。私にとってはゴールデンウイークの後半、昼過ぎに恭子と一緒に港まで恭子の両親を出迎えに行く。近年新装のなった港湾のビルには、乗船用のチケット売り場や待合室のほかに、土産物屋やパン屋、食堂なども入っている。2軒あるうどん屋はどちらも気軽に入れて、それぞれに捨てがたい庶民的な雰囲気と味の店だ。そのうちの1軒を選んで、それぞれお気に入りのうどんやら蕎麦を注文した。恭子は、散々迷った挙句に親子丼をたのんで、それがたいそう美味しいと嬉しそうに食べた。食欲もあり、普段と変わらずよくおしゃべりする恭子に、両親は一安心したに違いない。これが恭子には最後の親子丼ぶりになるのだろうと、私はそんなことばかり考えてしまう。

翌日、5月4日は風の強い肌寒い日だったが、私が強引に瀬戸内海の一望できる見晴らしのよい緑地にあるコーヒーハウスにみんなを誘って連れて行く。この店の一番の売りは、張り出した屋根の下の板張りに置かれたテーブルとイス。戸外での気持ちのよい飲食ができるところだ。風が強いので室内で食べたそうな両親を制して、屋外でランチをした。肌寒くて、夕方、父は熱を出してしまった。私のせいだ。昼食の後、その芝生の広がった緑地の先端にある展望スペースで何枚かの写真を撮った。

やっと辿り着いたとほっと満足げな恭子と共に

満面の笑みを浮かべる恭子

その写真に写った恭子の満面の笑み。こぼれんばかりの喜びを湛(たた)えた笑顔。両腕を大きく広げて、伸びやかに開放的に、はちきれんばかりに生きている喜びを表しているかのような写真に、私は驚いた。そのときの恭子の顔は、私が見慣れている顔ではなかった。珍しい表情だと、私には感じられた。実の両親と私に囲まれ、一昨日までの子どもとの幸せな時間を過ごした喜びの記憶も手伝ってのことだろうと、思っている。この日の数枚の得難い写真を残してくれたことが、私たちに、将来どれほど大きな慰めとなったことか、そのときの私たちには知る由もなかった。

思い出深い大切な日に

長男が初任給で買った恭子の大好きなふっしーグッズが届く

その日は私たちにとって恩寵(おんちょう)に満ちた、本当に思い出深い大切な日となった。夕刻、長男が初月給で恭子に買ってくれたふなっしーグッズが届けられた。スイカほどもあるような大きなふなっしーと赤ちゃんふなっしー、それにふなっしーソックス。恭子は大喜びだった。この日まで生き延びていられただけでも、つらい治療を選択したのは間違いではなかった。狂喜乱舞する恭子は長い間長男と電話で話していた。話は尽きなかった。

翌日、両親は少しホッとして帰って行けたのではないかと思っている。母は、そのとき、何か後ろ髪を引かれるような思いがしたと、のちに語っているが……。

5月6日。またアバスチンの治療。連休が終わって悲しいと言いながら、恭子はタクシーで病院に向かった。迎えは、私が午後の診療時間を遅らせて駆けつける。身の入っていない変則的な診療で振り回して、スタッフには申し訳ない。

「山崎先生が先週の脳MRIとPETの検査結果が良かったと喜んでくださった」と、恭子も嬉しそうに話す。医者がポジティブな発言をすると、患者はこんなにも安心できるのだ。「先生が喜んでくださって、私も嬉しいです」と言うと、先生は、「勘違いじゃないの」と答えたという。私には、その会話の意味がよくわからなかったが、先生が恭子の予期せぬ素直なことばに、ちょっとドギマギされたのかなと思った。(つづく)

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