君を夏の日にたとえようか 第21回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2021年9月
更新:2021年9月


まるで幼女に戻っていくように……

開花したユリにモンシロチョウが

6月半ばから、恭子は日に1、2度ではあるが、食事をもどすようになる。見当識の障害もだんだんはっきりとしてきて、これまではなんでもなくできていたことができなくなってきたことを、自分でも気づいてがっかりしている。歯科医院のちょっと複雑な事務処理や会計の計算ができなくなってきた。無理して頑張るけれど、わからなくなって途中で投げ出してしまう。つらいことだろう。ぼくがするからしなくていいよというと、逆に、また頑張ってみるのだけれど、やっぱりできない。「パパ、わたし、呆けてきたみたい」というから、「呆けたっていいじゃないか。パパと恭子は2人合わせて1人前、それでいいでしょ。なんの問題もないよ」と私はおまじないみたく繰り返す。

さっちゃんは、ペースを保って恭子の元を尋ねてくれる。恭子に会いたいという単純な、そして純粋な気持ちだけで。恭子の精神安定剤だと思う。ありがたい。

制吐剤と胃薬で恭子の嘔吐をコントロールすることは限界に近づいている。

両親や私の気遣いが互いにうわすべりしたりするなかで、朝食の時間は恭子と私だけの時間にしてくださいとお願いする。日中は親子水入らずの時間。夜は家族みんなで過ごす時間にと。

両親にも、恭子が食べてもどすことを目の当たりにする頻度が増えて、恭子が口元を抑えながら、そっと席を立ってトイレに入り、私がトイレのドアの外に立って中のようすに聞き耳を立てることが増えて、そのたびに両親も箸を止めて深いため息をつきながら不安な面持ちでいる。どうして、こんなことになってしまったのか、と母親は嘆く。当たり前のことだ。何回聞いたって、いくら丁寧に事細かく説明して、頭では理解できたって、自分のこどもの死が近いなどということをからだやこころで受けとめられる道理がない。さっちゃんも両親も恭子の死ということは念頭にはないのだ。無意識にそれは脳の中で認識されることが拒まれている事柄なのだ。脳の神経細胞の長く伸びた突起の絡み合った経路は、恭子の死ということばや概念のシグナルのインパルスを流すことを拒否しているのだ。さっちゃんや両親の脳の中で。

しかし、私は恭子の死について考えなければならない。いつ、抗がん薬の治療を止めるか。いつ、緩和病棟に入院させるか。嘔吐や痙攣などの、両親や子どもたちが見ていてつらい症状は可能な限り抑えていただかなくてはならない。何より、恭子を苦しませないようにしなくてはならない。考えなければならないことは腐るほどあった。

恭子ががんの痛みで苦しむことは全くなかった。自分の死について深刻に考えて絶望したり、嘆き悲しんで鬱的になったり、自暴自棄になったりすることもなかった。それについては、子どもたちの優しいことば掛けや、両親と共に暮らせるようになったり、さっちゃんや知人、友人が暖かかったりすることが、大いに助けになっていることは間違いない。

しかし、それだけではなくて恭子の生まれ持ったおおらかさや人間離れした精神的な強靭さや安定感があってのことだ。何処か達観したような、諦念ともとれるような波風の立たない澄んだ泉の水面のごとき穢れのないこころをもっているからだ。加えて、恭子をむしばんでいる乳がん細胞が脳を侵すことによって、恭子があれこれ悩み苦しむ思考力を程よく麻痺させているのかも知れないと私は感じていた。神の差配としか言いようがない。感情はちゃんと健全に保ちながら、思い煩う思考力や記憶力は明らかに低下していた。まるで幼女にもどっていくように……。

6月17日。滞在が長引きそうに感じた義父が1泊で帰省することになった。雑用を処理して、不足のものを調達するためだ。「パパが帰るのね」と恭子が言った。「恭子の大好きな鰻の蒲焼を買ってくるよ」と父が返している。恭子が義父のことをパパと呼んだとき、私はハッとした。恭子は義父のことも小さなころからパパと呼んでいたのだ。私に対する呼びかけのことばとしてのパパと義父に対するパパが、現在の恭子のなかできちんと区別されているのだろうかという複雑な思いが一瞬脳裏を駆け巡った。

6月18日。義父の持ち帰った鰻の蒲焼を「たらふく食べた。やっぱり、おじいちゃんの鰻は美味しい」と喜んでくれた。恭子の闘病記録に日付の混乱や誤字などが目立つようになる。

さっちゃんは淡々と通ってくれる。2人で長い間笑いながらしゃべくって帰る。ありがとう、さっちゃん。あなたがいてくれるから、恭子の精神状態が安定しているのです。そんなある日、さっちゃんに「パパが痩せるのよー」と語ったことがあったと、のちにさっちゃんから聞いた。確かに、2月以来、私の体重は着実に軽くなっていた。

もう恭子に頑張らせてはいけない

6月20日。恭子が思うように食事を摂れなくなってきたので、水分補給のために緩和ケア病棟の医長である中谷先生に点滴をしてもらうことになった。

「ママは頭のてんてきをする。量をへらして半分くらい。すっきりする。右の方がよく見えるはずなのに、左目の方がよく見える。頭の具合かも」(恭子の闘病記録)

几帳面な字を書く恭子の闘病記録の字が弱々しくて乱れてくる。

6月21日。脳外科医の浅間先生が恭子の脳のCTを撮ってくれる。素人目にも、小脳テント下にがんが充満しているのがわかる。「V-Pシャントは機能していますが、この部分だけの脳圧の亢進が吐き気の原因でしょう」と診断されて、グリセオールの点滴と、食が細くなっている分の補液の点滴を毎日することになった。いよいよだな、と私は観念する。治療を中止して、緩和ケア病棟への入院が必要になるのは時間の問題だ。

恭子の見当識障害は進んで、どんどん〝智恵子〟になっていく。恭子が智恵子になっていく……。それでも不思議なことに、病院の外来処置室で点滴を受けながら、さっちゃんとおしゃべりしながら、笑いあっている。会話に支障はないのだろうか? さっちゃんが心得てくれているのだろうか?

恭子は朝、私と朝食を摂るために起きてくるのが難しくなってきた。抗がん薬の副作用による脱毛はほとんど治まってきて、少し頭髪が残っている。それでも、わずかにある脱毛を気にして、ブルーの手術用のディスポーザブルキャップを被って寝る習慣を続けている。

ある日、恭子に声を掛けて、起床を促そうと寝間を覗き、「ママ、起きる? それとも、後でおばあちゃんたちと食べるかい?」

もたげた頭にかぶっていたブルーキャップが半分ずれて片目を覆っている。私は駆け寄って、キャップの位置を直してやる。「パパちゃーん」と言って、私の首に弱弱しく両腕を回してきた。優しく抱きしめながら、もういいよ、もういいよ、恭子、キャップのずれさえ直せないほどになっているのに……。苦し気に昏睡していたかのような恭子が努力の末にパチッと目を開けて、まるでひんやりとした風が野原に吹き渡ったように、「起きた!」と言って私にすがってくる。ひょっこり起き上がり、「パパと食べる!」(そのときのおどけて甘えたような声が私の脳裏に焼きついている)と、ふらつきながらトイレに行っておしっこをする。

こんなに近い病院だけど、もう通院が困難になってきたことを、私は悟る。もう、恭子に頑張らせてはいけない。治療なんておしまいだ。(つづく)

1 2

同じカテゴリーの最新記事