君を夏の日にたとえようか 第22回
奇跡を見るような思いで恭子を

その病棟での50日間の出来事を私は覚えているが、夢うつつで、ただしゃにむに走っていた。第4コーナーをヨタヨタと回り切って、あとは残った直線を走り切るだけだ。とうとう終わりが見えてきたのだ。
周りのことはなんにも見えてはいなかった。気がつけば季節は移ろい、暑い夏になっていたといった有様だった。私は1日たりとも夜、恭子の傍を離れることはなかった。その病棟は、病棟そのものの雰囲気からしてほかの病院、ほかの病棟とは違っていた。まさに、別世界だった。
清潔で静かな病室と共有スペース、穏やかな照明、完全個室制。緑が多く、そこここにボランティアの方々の持ち寄ってくれた楚々とした草花がさまざまな色や形の小さなガラスの一輪挿しに活けられている。各部屋に患者の家族の好きなものが配られる。中央には共有のゆったりとしたスペースの広間があって、どっしりとしたテーブルと椅子がいくつか点々と配置されている。テレビや電子オルガンもある。片隅には喫茶のカウンターもあって、定期的にボランティアの方がお茶を点ててくれたり、コーヒーを淹れてくれる。
何かの処置や用があって部屋に入ってくる看護師たちの眼差しは、これまでに見たことがなかったものだった。優しさと穏やかさに満ちていた。それでいて、どこか物悲しそうな。「こんにちは」「失礼します」と声を掛けて入って来られ、「ありがとうございました」と言って、出ていかれる。その挨拶はおざなりではなく、また、患者だけにでもなく、部屋にいる家族や見舞客にもきちんと向けられた挨拶だった。患者も家族も皆が1人の人間として扱われ、注意が払われ、よりよく逝くための医療の態勢が整えられていた。
最期にこのような場所に辿り着けた私たちは、幸運だったし、あらゆる意味において恵まれていたと思う。恭子自身も丁寧に「お願い致します」「ありがとうございます」と看護師さんや他のスタッフ、見舞客に受け答えして、常に笑顔を絶やすことがなかった。それは恭子の意識が途切れがちになり、理解力も相当に低下しているだろうと思われる頃まで続けられた。感謝するというこころは最期まで恭子の魂に残り続けたのだ。私は何か奇跡を見るような思いで恭子の様子を見守った。
両親の看病はなんと強く、なんと有難いものか
目的は、恭子に心身共に苦しい思いをさせないこと。恭子が大切な出会いと思っているだろう方々になるべくたくさん訪れていただいて、恭子が喜んでくれること。このことについては、私の一存には限界があって、どうしてあの方に声を掛けなかったのかと、後に悔やまれた方々がたくさんおられた。その頃の私は冷静ではなかったし、私が傍から見ていることと、恭子の想いは勿論乖離した部分があったろう。そのことは率直に認めなければならない。それと、両親に接待のための大変な苦労をかけさせてしまったことも事実だった。
両親との穏やかな別れの時間を確保すること。つまりは、恭子の両親に少しずつ恭子との別れを受け入れてもらう時間となること。私自身が恭子との別れのことなど考える余裕もなかったのに……。私は髄膜播種にま��わるさまざまな症状のうち嘔吐と痙攣を殊の外心配していた。これは何としてでもコントロールしてもらいたかった。中谷先生にもそのことは伝えた。恭子はもとより、周りで見ている両親もつらい思いをするだろうと考えたからだ。
事ここに至っても、勿論私たちが恭子のことを諦めてしまったという訳ではなかった。両親は「奇跡ということがあるから」と、真顔で私に何度も繰り返した。
幸運なことに、恭子が入院後食べ物を口にしてもどしたことは数えられるほど少なかった。グリセオール2本の点滴で、嘔吐をほぼコントロールしてもらっていた。有難かった。入院してどれくらい経ってのことだったか記憶が定かでないが、点滴のための血管がとりにくくなってくると、直ぐに中谷先生に恭子の左肘から鎖骨下辺りまで届くカニューレを留置してもらったから、点滴のたびに毎回注射針を刺す痛みからも恭子は解放された。
恭子は1日に幾度となくしゃっくりをした。4回か5回で自然と治まった。それはその先、留まることなく続くことになった。
「何か脳の痙攣に関連したことでしょうか?」という私の質問に、中谷先生は「そうかも知れませんね」と答えた。
両親は、倒れんばかりに頑張った。違う! 実際に倒れながら、這いつくばりながら頑張ったのだ。母親は我が家や病室で実際に幾度となく倒れ込んで、動けなくなったり、這いずりながら恭子の看病をしてくれたのだ。親というものは我が子のこととなると、なんと強く、なんと有難いものか、とつくづく思った。
私と両親はときに意見を異にし、ときに互いの想いを推し測り、ときにけん制し合いながらも、バランス感覚と互いへの配慮を保ちながら、共に力を合わせて難局に挑んだのだった。まるで、戦友のように……。
恭子の緩和ケア病棟への入院を、恭子のもう 1人の30年来の大親友の永井さんに電話で伝えた。永井さんはこちらが驚くほどに、電話の向こうで嗚咽を漏らして、ことばにならない。私も涙を堪えられない。聞けば、この同じ病棟でここ数年のうちに、実のご両親と従妹の3人を見送ったのだと言われた。従妹が亡くなられたのはつい最近のことだったらしい。奇しくも、3人のうちのどなたかは恭子が入院している同じ部屋で見送られたそうだ。
「お見舞いに伺わせていただいてよろしいですか?」と、永井さんはやっとの思いで尋ねられる。「勿論です。そのためにお知らせしたのですから」
恭子は寂しかったのだ
7月2日、土曜日。私の父親が、私の弟夫婦に伴われてやっとの思いで見舞いに駆けつけてくれた。人工透析を受けながらなんとか生きている母親には、長旅は無理だった。迎えに出た私を見てすぐに父親が、「おまえ、どうしたんだ? 大丈夫なのか?」と驚いたようにいう。初め、意味がよくわからなかったが、やせ細って顔色も悪い風貌の私を心配してのことばだった。のちに、見舞いに来てくれた義理の妹に、携帯電話で撮ってもらった写真に写った自分の体つきと顔を見て、父親のいっている意味がやっとわかった。恐ろしいほどにやせ細った、失望を隠せないみじめったらしい中年の男が写っていた。
7月3日、日曜日。またしても私はしてはいけないことを恭子にしてしまった。
夕飯に恭子の大好物の海苔巻きを寿司屋から買ってきた。ふとした瞬間の単なる偶然だったのだが、私と恭子の両親の3人が恭子の横たわっているベッドの前にある4人がゆったり座って食事のできる立派なテーブルで、海苔巻きを取り分けたり、何でもない事務的な会話をするという場面ができてしまった。つまり、リクライニングを少し起こして正面を向いている恭子の目の前で、恭子の見ている前で、恭子からは少し離れた場所で、3人が話しながら何かしているという構図が出来上がってしまったのだ。本当に一瞬の出来事だった。
アッと何か感じて私が恭子の傍に近寄ってみると、恭子は涙を流していた。「恭子!」と声を掛けると、照れ笑いをする。「お母さん」と慌てて、母を呼んで……。恭子は寂しかったのだ。3人の輪の中に立ち上がって行って加われない自分が惨めで淋しかったのだろう。
ごめんよ、恭子! 許しておくれ!
恭子は神様のお陰で、ちょっと込み入った思考や記憶力は徐々に削ぎ落されていったが、瞬間瞬間の感情はずっと死の直前まで豊かに残されていたように思う。記憶や複雑な思考の弱まりは、ある面ではとても恭子を楽にしてくれたと思っている。恭子らしい将来に備えた配慮の品々のことや、心配事や、し残したことや、子どもたちや私や親たちの将来を思い煩ってこの世に未練を残す悔しさは、随分と軽減されたであろうと思うからだ。それは、その豊かに残っている感情に対する配慮の欠けた一瞬の出来事だった。
私の1日は早朝、5時に始まる。「おはよう恭子」。カーテンを開けると、初夏の朝の光が恭子のベッドに差し込む。恭子はたいていスヤスヤと眠っている。チュッ! 自分の身支度を済ませ、ドリンク剤を飲んで、コンビニで朝食を買ってくる。恭子から目を離さないように短時間でサッと買ってくる。前日に余裕があれば、前もって朝食を買い、冷蔵庫にしまっておくこともある。
CDプレイヤーを家から持ち込んでいるので、恭子の好きな、グレングールドのピアノ曲、モーツァルトやバッハ、ブラームスや、カーペンターズなどのポップスを流す。私はブラームスのピアノ間奏曲、E-flatとE‐Majorが好きだった。2人で最近よく聞いたチョン・ミョンフンの「マエストロからの贈り物」というピアノ集もよくかけた。ドビュッシーの「月の光」が本当にデリケートに密やかに始まるCD だ。エトセトラ、エトセトラ。防音が比較的保たれていたから、かなりの音量で聞いた。(つづく)