君を夏の日にたとえようか 第24回
死前喘鳴が始まった

翌7月28日には、食事の経口摂取、服薬の総てを諦める決断が中谷先生によってなされた。両親も恭子の口に食事を運ぶことが窒息や誤嚥につながるのではないかと、こわごわだったのだ。点滴の水分のみで恭子は生きることになる。表面的には昏睡かと思われるような深い眠りにつく。
恭子の容態に変化が表れてくる。29日、手で股間をしきりにさすりながら、おしっこしたい、おしっこしたいという意思表示を、目を閉じたままに延々と続ける。私も両親も病院のスタッフも、「紙おむつだからそのままおしっこしていいよ」と耳元で繰り返すが、どうしてもおしっこできない。見ていて不憫になる。仕方なく、転倒のリスクをおして皆で担ぐようにしてポータブルトイレに座らせてみるのだけれど、おしっこを出せない。恭子は尿意を盛んに訴えても、自分で排尿することができなくなっているのだ。看護師さんたちが相談して、膀胱にバルーンカテーテルを入れて導尿に踏み切る。700ccの排尿がある。一挙に楽になった恭子はスヤスヤと深い深い眠りにつく。この先、恭子がはっきりと覚醒することは二度となかった。
使い捨てパンツはいわゆる使い捨ておむつに代わる。面倒なパンツの上げ下げは無意味なのだ。恭子はおしっこをしないし、うんちもほとんど出ない。看護師さんたちが毎朝、おむつを開いて陰部の洗浄をしてくれるのに紙おむつが一番都合がいいのだ。
7月30日、土曜日。こんこんと眠り続ける恭子は昏睡に陥ったかにみえる。しかし、その判断は明らかに間違っていた。それは、夕刻に訪ねてくれたさっちゃんが証明してみせてくれた。さっちゃんの呼びかけは親しみが籠っていて、懐かしくて、切なくて、その呼びかけを延々と10回、20回と繰り返す。
「クーちゃん、クーちゃん、クーちゃん。どうしてお返事してくれないの。お返事してよ」。そうして、とうとう奇跡のような光景がわれわれ家族の目の前で起こる。なんと! 恭子は呼びかけに応じて右腕をゆっくりと持ち上げる。さっちゃんがすかさずその手を握る。その手をとって、胸元にふなっしーを置いて導いていくと、愛玩するようにふなっしーを両腕で抱きしめて、右の手のひらでふなっしーをよしよしとなでる。恭子の手は、大きな長い手のひらだこと!
その夜、ベッド上の恭子を抱きしめてキスをする。恭子の好きな耳にも。すると、恭子が自分の腕を私の背中にまわして抱き寄せてくれる。夕刻にふなっしーにしたみたくに。恭子のこころはちゃんと思考の片鱗を残して、ちゃんとした意志を持って、意識した行動ができるのだ。間違いなく、感情も……。完璧なこころの状態だ。昏睡状態などではない。
中谷先生も「奥様は瞬時に忘れてしまわれるのでしょうが、聴覚は健在で、ご主人の言われることがわかっておいでだと思いますよ」と。
7月31日の未明からごろごろ、ゲボゲボと喀痰が多くなる。婦長がたくさん吸引してくれる。死前喘鳴(ぜんめい)が始まったのだ!
日勤帯はすやすやと眠っているだけだ。私はこの日の夕食に、義理の妹が届けてくれた鰻を食べる。何も食べることのできない恭子のそばで食べることは憚られて、申し訳な���て、少し離れたところでこっそりと食べる。
1週間は難しいのではないか
8月1日。私が中谷先生の部屋に呼ばれた。先生が申し訳なさそうに「奥様の状態は、1週間は難しいのではないかと思われます。しかし、ここ1日、2日ということではないと思います」と厳しい話をしてくれる。私は、覚悟はしていたから有難く拝聴する。「血圧が下がってきて、おしっこが出なくなったら、1日、2日でしょうね。先生も歯科のほうを休診されるタイミングではないでしょうか……」。私は、丁寧にお礼を述べて部屋を辞した。
余命1カ月ですと以前言われたことと、1週間でしょうと言われたことは、話をしてくれた医者のいうことは全く同じだと思う。同じようなトーンで同じような厳しい話をしてくれたのだ。
しかし、ここでは私たちが受け止めて、こころを決めて、決断したり、行動したりしなくてはならないことが、とてもゆったりとした時間の流れの中で考えることができる。なすべきことはそれほど複雑でも多くもないから、その猶予が十分に残されている。私たちは追い詰められているのではなくて、どうやって残された恭子との時間を穏やかに豊かに過ごそうかと思案すればよい。恩寵(おんちょう)に満ちた時間にしなくてはならない。そして、何より違っていることは、今回は恭子自身がこの厳しい話を知る必要があるかないかという判断に迷う必要がないということだ。
両親と子どもたちに先生のことばをそのまま率直に伝えた。子どもたちは、母親の死が近いという事実をとても冷静に受け止めてくれた。長男は「最悪の事態は常に想定しているから」と言ってくれた。次男は「すでに腹は括っている」と。両親も取り乱したりはしなかった。恭子はすやすやと眠っているし、顔色もよく、なんの苦痛もなさそうだから、「本当だろうか、そんなことはないように思う」と繰り返した。
恭子の太ももや臀部の肉は削ぎ落されたように痩せ細っていたが、不思議と顔はふくよかで肌も日に日に艶やかになっていたのだ。しかし、両親はようやく主だった親戚に電話で事情を説明し始めた。朝に、昼に、晩に、血圧測定、畜尿量の確認、血中酸素飽和度のチェックが私の日課になった。痰の吸引も中谷先生の許可をもらい、看護師さんが忙しそうなときは私が行なった。口腔内の細菌を減らすための保清とカンジダのコントロールは私の仕事だと決めていた。
ここにきて、恭子に残された奇跡のような力を引き出してみせてくれたのは、やはりさっちゃんだった。さっちゃんが遊びに来てくれて、根気よく呼び掛け続けると、恭子が残った力を振り絞って、最後にみずからの手を動かした。ゆっくりと右手を持ち上げて、たゆたうように左右に手を振る動作をする。続いて、両の手のひらを胸の上で静かに合わせた! さよなら、と、ありがとう……。
恭子は親孝行な娘だ。午前1時辺りになると決まって喘鳴が始まって私を寝かせてくれないのに、昼間はスヤスヤと〝おりこう〟に眠るばかりなのだ。両親は私が夜半の苦労を説明しても、「パパばかりに甘えて」と口ではいうものの、死前喘鳴そのものがピンとこない風だった。見たこともないのだから仕方がない。
永井さんの親御さんもやはり午前1時ころから喘鳴が酷くなって、眠らせてもらえなかったと言われるから、ステロイドの効果の切れるタイミングで喘鳴が始まるのかも知れないと思案したりする。婦長に相談すると、「深夜帯にステロイドの追加を試すことが可能か先生に尋ねてみます」と直ぐに反応を返してくれる。有難い。普通の病棟ならとり合ってもらえず一笑に付されるだけだと思う。(つづく)