君を夏の日にたとえようか 第25回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2022年1月
更新:2022年1月


さっちゃんの呼びかけにも反応しない

黄昏の光り

ついに恭子の母親がダウンしてしまう。腰を痛めて起き上がることもできない。中国整体の中川先生の施術を受けて、「頑張り過ぎたのですから、2、3日はゆっくり休んでください」という優しい声を掛けてもらった。母親は恭子のことを心配しながらも、言いつけを守り、まる2日安静にして死んだように眠って休憩を取った。

一方、恭子も深い深い眠りに陥って、ついに、さっちゃんの呼び掛けにも反応しなくなる。それでも、さっちゃんは遊びに寄ってくれるのだけれど……。

山の日のこの日は、バイタルサインに明らかな変化はみられないが、呼吸が弱々しかった。夕方の体位変換により呼吸状態がましになった。体位変換の枕の下敷きとして、長男が最初に送ってくれたふなっしーのぬいぐるみが大活躍する。枕の片方を高くして角度をつけるのに丁度よい大きさなのだ。

8月12日はとても安定していた。中谷先生が「いい息をしておられますね」と嬉しそうに言ってくださる。

私が呼び戻してから、ずっと恭子と過ごしてくれた子どもたち。私と一緒に夕飯を食べ、窮屈な簡易ベッドで恭子から離れなかった。それなりに恭子が小康を保っているので、13日にひとまず次男が大学に戻ることになった。修士論文のための作業を進めなくては卒業できない。

恭子が、視力が落ちてきたと気にしていた右目は閉じられたままになっている。視神経ばかりではなく、顔面神経も侵されているのだろうか? その代わりに左目が半開きになっていることが多い。黒目がゆっくりと内側に移動して、スッと目じりの方向に戻り、またゆっくりと内側に動くという眼振を繰り返している。小脳テント下で小脳や脳幹部にがん細胞が充満しているせいだろうか?

それと、恭子は顎が外れるんじゃないだろうかと思われるほど大きな口を開けて、野性的な大あくびをしょっちゅうしている。そのたびに酸素マスクが外れそうになる。長男と一緒に恭子の顔を眺めていたら大あくびをして案の定マスクが外れかける。すると、なんと、恭子が自分の右手を口元までもっていってマスクのずれを正そうとする! 長男と驚きの声をあげる。頑張っている恭子! 無意識に生きようとしてくれている。

看護師さんに話すと、ではと言ってカニューレによる酸素投与に変更してくれる。

翌、14日には盆休みが終わる長男も早朝に職場のある街に帰ることになった。

「これだけママと一緒に最期を過ごせたのだから、万が一のときに間に合わなくても悔いはないから」と言い残して……。

夜は恭子とふたりっきりに戻るわけだ。

恭子の右眼から2粒の涙が

恭子の花、ハナカイドウ(4月頃)

8月15日。一昨日頃から小刻みにわずかに頭部を振動させる振戦(しんせん)が1時間ばかり続いて治まるということを繰り返している、そう頻繁ではないが。当直の先生は痙攣の一種かも知れません。「苦しそうでしたらお薬を使いますが、呼吸抑制が出るかも知れません」と説明されるので、遠慮��る。

混濁する意識の中で恭子が左の半眼を開くことが多くなる。閉じさせても、すぐに開く。ドロンとしたまなこは怒りに燃える広目天のそれのように厳しく私たちを睨んでいる。動けぬ我が身を赤子のように扱う我々に対する憤怒の表れでも、優しいばかりではない厳格な恭子の一面が埋火のように生き残っているようにも見えて、私は慄然とする。

脈拍がやや低下傾向であること以外はバイタルサインも終日安定している。

8月16日。早朝、呼吸状態が悪く努力性となる。体位変換で一時的に改善するが、すぐ荒い呼吸になるので、学生の次男に帰省を促す。長男と電話で話す。「会社に迷惑を掛け過ぎてはいけないので、もう少しねばりたい。お盆の間に十分お別れはしたので、もしものことがあっても悔いはないから」と。

痰の吸引を頻繁にしてもらうが、下顎(かがく)呼吸になり、すぐ舌根が落ちてしまう。若い看護師さんが吸引しても呼吸状態が改善しない。私が下顎を引っ張り上げて呼吸音が楽そうになっても、手を離せばすぐ舌根が沈下してしまう。手を離せない。婦長さんを呼んでもらい、体位変換でなんとか呼吸を改善させるのがやっと……。

中谷先生にネイザルチューブを入れるのはどうかと相談すると、すぐに試みてくれたが、チューブを鼻腔のごく浅いところにしか挿入していない状態で、恭子が嫌がって手で跳ね除けるような仕草をする。

「ああ、大変な間違いをするところでした」と、先生はチューブの挿入を即刻中止される。「奥様は痛がっておいでです。やめておきましょう」と。一も二もなく同意する。

恭子はいまだ昏睡には陥っていないのだ!

8月17日。24時間尿量は900㏄だからそう悪くはない。しかし、この日は1日中呼吸が荒々しかった。これまでにない変化としてバイタルサインのうちで血圧が時折高くなって安定しない。最高血圧が200を超え、最低血圧も120台だったりするときがあった。酸素濃度は下がっていない。1日中、ゴーゴーと荒々しい呼吸を全身でしている。ラストスパートをかけている。

どのように体位変換しても、痰を吸引しても、あまりに呼吸が大儀そうなので、中川先生に相談する。先生は直ぐ駆けつけて、当分の間呼吸が楽になりそうなツボを何カ所か押さえてもらうが、効果がない。「私にできることはありません」とすまなそうに先生が帰られる。

それでも、夕方さっちゃんが来ると呼吸音が穏やかになる。ベッドサイドに腰掛けたさっちゃんが次男と何やら話をしていると、恭子の右目からツーッと2粒の涙が零れ落ちて頬を伝う。

驚いたさっちゃんが、「クーちゃん、どうしたの? 何が悲しいの?」

その涙が何であったのか、私たちには測り知ることはできない。次男とさっちゃんの会話に参加できない自分が寂しかったのかも知れない。大あくびをした直後でしぜんと流れ出た涙なのかも知れない。それとも、それから5時間余り先に起こることを悟っていて、私たちにさよならを言ってくれたのかも知れない。私たちは、何も知らない。

18時ころ、中谷先生が回診してくださる。特段のことばはない。

行年58歳。若すぎる……

私の恭子

「旦那さん、奥さんの脈が弱くなっているんですよ」と、例の厚い信頼をおいている看護師さんが私に呼び掛ける。跳ね起きた私は、恭子の腕をとって脈を診ようとする。橈骨(とうこつ)動脈は触れない。とっさに、マウスツーマウスの人工呼吸を試みる。次男も恭子の傍に駆け寄ってくる。ボコボコと水の中に空気を通すような感触がする。ダメだ、と理解する。

「おじいちゃんとおばあちゃんに電話して!」と次男に頼む。恭子は眠るような穏やかな顔をしている。当直医は脳外科の浅間先生だった。眠そうな顔で駆けつけて、恭子の首筋に手を当てて、「30くらいかな」と言われた。知らぬ間に両親が駆けつけている。それでは、というタイミングで浅間先生が、看護師さんに「ライトか何かあるか」と尋ねられる。私は次男に、私が恭子の口腔ケアのときに使っている「ペンライトを取ってくるように」いう。浅間先生に渡して、先生が恭子の瞳孔に光をあてて、その散大を確認される。

「11時20分、ご臨終でございます」と言って、頭を下げられた。

平成28年(2016年)、8月17日、午後11時20分に、私の恭子が他界する。

別の時空に旅立って行ったのだ‼ 行年58歳。若過ぎる……。(つづく)

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