君を夏の日にたとえようか 第26回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2022年2月
更新:2022年3月


合唱団メンバーの歌声に送られて

8月20日、土曜日の午後6時からお通夜。21日の11時からの葬儀となった。よく晴れた暑い日曜日だった。

お通夜にも葬儀にも声を掛けそびれていた方々もたくさんお参り、ご会葬いただいた。葬儀場の玄関に大きな文字で書かれていた恭子の名前を、たまたま通りかかった子どもの同級生のお母さんかどなたかが目に留めていただき、伝聞で聞きつけてくださった方々も加わって、椅子が追加されるほど予想を越えた方々にご参集いただいた。有難いことである。恭子の人柄ゆえだと思う。

恭子の葬儀で合唱団の高嶋先生にお願いしておいたことがひとつあった。それは恭子が大好きだったMonteverdiのEcco mormorar l,ondeを合唱団のメンバーで歌ってもらうことであった。何年か前の合唱団の演奏会のステージで恭子がこの曲の紹介をしたことがあった。そのせいで想い入れが強くなったのか、それとは無関係に恭子がこの曲を気に入ったのかは定かではないが、そのときにこの曲紹介している恭子の肉声もCDとDVDに残っていた。

葬儀が進み、ご住職が退席されたのちに、恭子がこの曲を紹介する肉声を会場に流してもらい、恭子の横たわる棺の周りを合唱団のメンバーが取り囲んで歌ってもらった。恭子と私が共に手を取り合いながら酷く苦しまずに乳がんとの闘病ができたのは、この合唱団で2人して歌えるという喜びがあったればこそできたことであった。音楽そのものの力ばかりではなく、温かい合唱団のメンバーの方々の気持ちが2人を支えてくれたのだ。そのメンバーの歌声の中で恭子を送れることは本当にありがたいことであった。

恭子!君の勝ちだよ!

プランターに植えた里芋

恭子が荼毘に付されるとき、恭子は我が身を紅蓮の炎に焼き尽くされながら、心底憎らしいがん細胞の亡骸をも、憤怒の思いを込めてもろ共に道連れにしているのだと思った。

焼き残った灰と化した恭子の遺骨は、がん細胞を跡形もなく焼き殺した勝利の証のようにさえ見えた。(頑張ったね、恭子! 君の勝ちだよ!)。がんが宿主を死に至らしめたとき、自らの血液供給も絶たれて死なねばならない。そののちにも火の地獄が待ち構えているのだから、がんとは阿呆な病だ。

遺骨は勇ましい恭子の勝ち戦を讃えるように、私たちの目の前で生前の身体の位置をきちんと保ちながら横たわっていた。

「なるべくたくさん骨壺に詰めてください。なるべくたくさん」
「そのほうが故人も喜んでくださる」

そう言いながら、住職が竹箸で骨壺の中の遺骨を砕いている様子に、私は我に返った。母が、「こんな姿になって……」と嗚咽を漏らしていた。私と長男は食い入るように恭子の遺骨を目に焼きつけながら、黙々と骨壺に骨を収めていった。続いて皆が順繰りに何回も何回も遺骨を骨壺に収めた。それが勇ましい恭子の闘いぶりをねぎらうために我々にできるせめてもの作業であるかのように……。

翌日、居間で四十九日までの仮の仏壇に安置された恭子のお骨と遺影を眺めていると、窓の外ではつくつく法師が鳴いている。庭の木槿が盛りである。両親に毎日の水やりをお願いしていた6つのプランターに植えつけた里芋の茎は、見事に太く大きな葉が生い茂っている。毎年のこのころと変わらぬ光景だ。

私の傍らにはいつだって恭子がいる

みんなが寄って集って、「恭子の人生が短か過ぎた、あまりにも早くに逝き過ぎた」「私を残して、今からが2人でゆっくりと楽しいこともいっぱいあるのに」、と言って騒いでいる。私があまりにも可哀想だと、哀れんでくれたり……。言っていることは間違いじゃないし、そうなのかもしれないけれど、私は必ずしもそのようには感じていない。

2年間も治らないとわかり切っている治療を、それも、相当につらい治療を続けてきた恭子は、ホッとして、やっと安心して穏やかな気持ちでいるに違いない。さっちゃんに会えなかったり、永井さんとおしゃべりできなかったり、いろいろな不便はあるだろうけれど、それを差し引いても、今の状況のほうが居心地いいに決まっている。

私の傍にはいつだって恭子がいるし、いつでも恭子の温かさと優しさを傍に感じられるって、いったいどう説明すればいいのかわからないけれど、そう感じている。恭子はいつでも私と語らったり、意見を交わしたり、お説教をしてくれたりしているのだ。からだがあって、目に見えて、物質として存在することは、あまり重要なことではないみたいなのだ。恭子は成仏なんてしないで、いつまでも私の傍にくっついていて欲しい。どう言えばいいんだろう。例えば、遠い距離を隔てた街に自分の大切な人が無事で生きていると、どうして断言できるだろうか? そう信じているだけで、本当のところはわからないんじゃないだろうか。信じるか、信じないか、みたいな。

子どもたちがそれぞれのいるべき場所に戻り、8月24日の水曜日から私は仕事に復帰した。滑り出しとしては、比較的冷静に仕事ができた。両親はしばらく留まってくれている。母は家を掃除して、買い物に行って当面私が困らないようにさまざまなものを買い置きしてくれている。父は庭の草をきれいに引いて見違えるほどになった。荒れ果てていた庭がすっかりきれいになった。それができるときがきたら、徒長した庭木の枝を掃うのは私の役目だ。

さて、といった感じで、「1人になって大変だろうけれど、自分たちも家に帰って家を片づけないといけないからと、名残は尽きないけれど」と言い残して両親が帰って行った。(つづく)

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