君を夏の日にたとえようか 第27回
「被害者面してちゃあだめだよ」
9月の早々に、合唱団の練習に久しぶりに参加してみることにする。
恭子が助手席にいない運転にはあまり慣れていない。助手席を見やりながら、恭子がうつらうつらするお決まりの光景を脳裏に思い浮かべる。都市高速に入る直前で、急に不安になって安定剤を飲もうとしてパニックになる。しかし、もう車は目的地に向かっているのだから仕方ない。高嶋先生はじめメンバーが取り立てて恭子の話題に触れるでもなく、いつものように当たり前に淡々と接してくれるのが有難い。
庭で採れたマスカットを、お礼の気持ちを込めておみやげにした。皆さん美味しい美味しいと言って喜んでくれた。少しずつ分けて持ち帰ってもらった。合唱にはのめり込むことができたが、むしろ休憩時間の茶話会のほうが苦痛だった。みんなには、これまでどおりの心地よく忙しい時間が流れているのだ。当たり前のことだ。私は相変わらず非日常を生きている。練習の終盤で声の調子が崩れて、一気に気持ちが落ち込んだ。上着を1枚脱ぎ、スリッパを脱ぎ、こころをなんとか鎮めて、最後まで歌い切った。爽やかな達成感があった。ああ、これからもこの合唱団に助けられながら生きていけるのかも知れない、と思った。
私が間違えていたのだ、なすべき事柄の手順を。恭子の預金が残っているある銀行のホームページを見ていて、相続の手続きがさほど煩雑なことのようには書かれていなかったので、つい電話をして相続手続きをしたい旨を伝えてしまった。
担当の行員が代わって電話に出て、「相続人全員の方の自筆での署名と実印の押印、それと被相続人の方の生まれてから亡くなられるまでの総ての戸籍の写しをご準備いただかなくてはなりません」と事もなげにいう。相続手続きに慣れてしまったのちになれば、なんということのないお決まりの手続きが、恭子が他界して1月も経っていないそのときの私には途方もなく気の遠くなるような手続きに思われた。
恥ずかしい話だが、私はそんなに大変な手続きなら今の段階で申し出る訳がない。ホームページにあまりに簡単に書いていたからつい電話してしまったのだ。「もっと詳しく書いてくれていれば電話などしなかったのに」と銀行側の不親切をなじった。
銀行の手続きは、優先順位の高い事柄を片付けてからゆっくりすることに決める。恭子がそれでいいというので。
それにしても、大学院生の次男は実印など持っていようはずはない。次男の現住所はこちらになっている。この際、実印を作っておくことにする、早晩必要になるものなのだから。実印を作ってもらい、印鑑登録の手続きと印鑑証明をもらおうと役所に電話する。
「ご本人の自筆の委任状が、登録の際と印鑑証明を取る際に2通必要です。それと、運転免許証か健康保険証の実物が必要です」という。
(またか!)と私は頭にくる。
「学生ですから、運転免許は今取得中です。健康保険証の実物が要るのですか?」
「そうです」
「健康保険証がこちらにあるとき、病気になったらどうするんですか?」
「10割負担していただいておいて、あとから戻してもらえるんじゃないでしょうか」
「そんなバカな……。わかりました」と憮然として、私は電話を切る。
銀行や役所の理不尽さを長男に愚痴ると、長男が恭子の代わりをちゃんとしてくれる。「それはパパの���うがおかしいんだよ。大切なものなんだから、相手のほうからすれば当たり前の要求だと思うよ」と、あっさりと言われる。もうひと押し、パンチが飛んでくる。
「パパ。ママを失って自分だけが不幸なんだって、被害者面してちゃあだめだよ」
恭子が長男の口を借りて言っているのだ。
私が選んだ仏壇が運び込まれる

最初の月違い命日、四つ七日の土曜日に岡が泊まりに来てくれる。華道を京都の池坊の大学で修行されたおばあちゃんがお茶に招いて下さり、岡と一緒にお宅にお邪魔する。私の患者さんだ。ご主人が一昨年亡くなられて、山懐に住まっておられるので足がなくて困り切っておられる。ご主人はプランターでの里芋造りの私のお師匠さんで、美味しい里芋の種芋はご主人からもらったものだ。世話ができないからといって一切処分されたらしいから、私が種芋を大切に守っていかねばならない。
水屋から汲んだ井戸水を鉄の釜に入れて、炭火で沸かして待っていてくださった。薄茶を2杯いただいたのちに、鉄瓶で沸かした白湯は本当に美味しいからといって勧められた。美味しい。さらに茶室から食卓に場所を移して、番茶をおあがりなさいという。満足をやや越えたか……、超満足。
翌日、私が選んだ仏壇が我が家に運び込まれる。前の日に仏壇の入るスペースを決めたり、家具を動かしたり、掃除機をかけたり、岡が甲斐甲斐しくてきぱきと手伝ってくれたので準備はできている。あいにくの雨だったが、仏壇屋さんは手慣れたもので、仏壇を濡らさないように安置してくれた。仏壇に入れておくものの配置やら、仏飯のあげ方、お花の供え方、文机のおりんや香炉の位置、住職のお座りになる二種類の座布団の説明、果てはお霊供の配膳の仕方まで手ほどきを受けた。手取り足取り、手慣れたものだと感心する。
9月19日。葬儀で導いてくださったご住職にご足労いただき、お霊供を供えた仏壇の釈迦如来の開眼供養、入仏式を執り行っていただいた。岡は昨日帰り、弟夫婦に同席してもらった。義理の妹は私のからだのことも気遣ってくれて、果物をどっさりお供えしてくれた。感謝するばかりだ。
「奥さんがいなくなって寂しくなりましたねえ」と、言われることが多い。自分もご主人を亡くしたりした患者さんたちによく掛けてきたことばだ。
「なんか、でも家内はすごく近くにいるようで、寂しいというんでしょうかねえ」と天邪鬼の私は答える。恭子のいないのは勿論、猛然と寂しいのだけれど、(妖精の恭子はいつだって一緒だからなあ?)と思う。
私はまだ非日常を生きている
涙がとめどなく流れるのは、思いがけない方から手紙をいただいたりして、人様の思いやりに触れたときだ。さっちゃんが何かにつけて家に立ち寄ってくれる。部屋に入るなり居間の出窓に飾ってある恭子の遺影と骨壺に駆け寄って、感極まったやや上ずったソプラノで、「クーちゃーん」と嘆息とも懐かしさへの喜びともつかない声を発せられると、私の涙腺から流れ落ちる涙は留処もない。人様の優しさが最も涙腺を刺激して仕方ない。
9月27日。29回目の私たちの結婚記念日は、子どもたちからメールで祝福され、家族4人でお祝いをした。
10月2日、日曜日。子どもたちと恭子の両親と私の父親が足を運んでくれて、弟たち夫婦も時間を割いてくれて、パッと一瞬の賑やかさの中で四十九日忌が寺で営まれた。両親は後ろ髪を引かれるようにしいしい、帰って行った。
何事もなかったかのような日常の中へ……。本当のところ子どもたちはどうなのだろう? 心優しい長男は仕事に没頭しながら母親のことを思っているのだろう。心優しい次男は寡黙で何も言わないから、黙々と勉強しているのか?
私はといえば、やはりまだ非日常を生きている。やっとの思いで……。まだ、生き続けていく決心はついていないが、だからといって死ぬわけではない。死ねば子どもたちや親たち皆を悲しませ、不幸のどん底に突き落としてしまう。何より、子どもたちのために生き抜かねばならない。
そんなことを考えていると、(おまえ! 本気で恭子が妖精だと信じているのか? 信じるのなら、もっとシャキッとしろよ!)という別の私自身の声が聞こえてくる。(つづく)