君を夏の日にたとえようか 第28回
恭子の思いもかけない話を聞かされる
11月25日は恭子が他界してから百日目。関西では逮夜(たいや)といって前日を大切にするらしく、24日が百日忌ということになる。そこで23日の勤労感謝の休日に、さっちゃんと永井さんに百日忌の法事の代わりに仏前で2人に恭子の思い出話をお願いしてみたら、2人とも喜んで引き受けてくれた。
その席で、私は思いがけない話を2人から聞かされることになる。
朗らかで思いやりがあって誰からも好かれた恭子は、本当に楽しく充実した大学生活を送っていたとさっちゃんが言ってくれた。ほとんどなんの悩みもない大学生の恭子にはただ1つだけ悩みがあって、それは「私が、恭子の私に対する想いになかなか真剣に応えてくれないということだった」というのだ! 恭子が私に恋愛感情を持ってくれたのは、「大学生になる前からだと思うよ。大学の構内で偶然私に会ったときに、恭子の目がきらきらと輝くのがいつも隣で見ていてすぐにわかったよ」と。
私は頭をがんと殴られたような衝撃を受けた。恭子の思いがいじらしくて愛おしくて、涙が止まらなかった。〝鈍感な青年〟だった私は、恭子に好感を感じながらも交際を申し込む自信も勇気もなかった。何より私は他のこと、勉強や合唱や友情などにばかり気を取られて、恭子の想いをしっかり受けとめることさえできない愚鈍な青年だったのだ。
ありがたくて、もったいなくて涙が止まらない。恭子は私と結婚するまで10年間も心細く迷いながら、私のことを大切に思い続けてくれたのだ。もったいなくて涙がとまらない。
「なぜ、さっちゃん、そのとき僕に言ってくれなかったの?」と、卑怯な私は尋ねてみた。さっちゃんはニコニコとほほ笑むばかりだった。
恭子は大学卒業を目前にして受けた健康診断で、股関節が思いのほか悪化していることが判明して、配属校まで決まっていた教職に就くことを諦めて親元に帰省した。永井さんは整形外科医のご主人が片田舎の病院に出向を命じられて、恭子の住む街にやってきた。そのときの茶道教室で2人は知り合いになった。「恋人が卒業した大学の大学病院にいるのよ」と嬉しそうに話していたそうだ。私のことだ。私はそんな恭子の真摯な想いに真剣に向かい合っていたとは、とても言えない。
恭子と両親は迷いに迷って、私たちの卒業した大学病院で股関節の手術を受けることを決断した。そのことで、私と恭子は再び繋がることができた。恭子が田舎で教職に就いていたら私たちの絆は途切れていたかも知れなかった。股関節の手術をほかの土地の病院で受けていたら、やはり私たちは結婚できていなかったかも知れない。離ればなれになりそうな運命を乗り越えて私たちはきわどい繋がりを保つことができて夫婦になれた。大学在学中に恭子の想いを真剣に受けとめていれば、もっと早くしっかりと結びつくことができたのかも知れない。手術後のリハビリを受けるために小さなアパートでの1人暮らしをしていた恭子をひとりぼっちになんかさせずにすんだかも知れない。恭子に寂しい思いをさせた私はなんという情けない男だったのだろう。恭子の想いが、ありがたくて、もったいなくて、いじらしくて、私は本当に後悔した。泣けて、泣けて仕方なかった。
恭子と2度目の恋に落ちていった

時期を一にして、恭子の訃報を聞いて高校で私と恭子の同級生だった女性が電話を掛けてくれた。お悔やみの挨拶も早々に、同じような話が出てきた。彼女は事もなげに私に言った。
「クーはあなたが受験する同じ土地の大学を受験したのよ、あなたに合わせて」
なんということだ!
「知らなかったの?」
恭子の一途さが愛おしくて、私は恭子との2度目の恋に落ちていった。憐憫からではなく、本当に已むに已まれぬ理屈抜きの真剣な思いのこもった恋だ。恭子がほかの時空にいることなどなんの障害にもならない、どうでもいいことだった。私は人生2度っきりの恋に、同じ女性と落ちていったのだった。
何気なく覗き込んだ普段あまり見ることのない箪笥の引き出しに、不思議なものを見つけた。桃色の美しい織物の地に、金糸銀糸の艶やかな刺繍の施された握り拳ほどの大きさの巾着袋だった。中には大きな印鑑が2本納められていた。押印してみると、なんとも解読不能な印鑑で、実印にしてもいいくらいの立派なものだった。最初に思いついたのは、恭子が2人の息子のために実印用として準備していたものだろうか、ということだった。
しかし、長男が就職して実印を作った際に恭子はなんにも言っていなかったし、どうみても私たちの苗字とは読めなかった。次に恭子の両親が結婚のときに持たせてくれたものではないかと考えた。早速、両親に電話して尋ねてみたが、父はなんにも思い当たらないという。
2、3日後に父から電話が入る。
「あとで、ゆっくり思い返してみたのだが、そう言えば、恭子から縁起を担いで印鑑を作ろうと思うのだけれど、と相談されたことがあってね、思いが叶う印鑑を。高く売りつけられる商売だから、止めときなさいと言ったんですがね」という。
じっくり、押印のかたちを眺めていて、1つは確かに恭子という文字をくずして装飾したものに違いない。もう一方はわからない。
年末に子どもたちが帰省した際に意見を聞いてみたが、長男の見解は違っていた。恭子に対する恋慕の情の強い私には、どうしても私の名前に見えて仕方なかったが、長男は恭子の旧姓の苗字に違いないという。
「パパは、話の流れからママがパパの名前を刻印してくれたと思うんだから、そう信じてればいいんじゃないの」という幕引きになった。恋は盲目だ。
親友スミレさんとの出会いが恭子の人生の原点
歳が改まって早々に、ドイツ在住の恭子の親友スミレさんから手紙をいただく。スミレさんには昨年の春に、恭子に残された時間が少ないことをメールで伝えておいたので、その後毎日のように携帯にさりげなく恭子を励ますメールを送ってもらっていた。
8月に他界したときも、その日に横浜に住んでいるスミレさんのお母様に電話を差し上げた。ドイツのスミレさんに即座に伝わったと、手紙にも記されてあった。恭子のことを毎日毎日思い続けてくださって、手紙を書く気になるのに4カ月かかったのだ。思い続けてくれたその時間と筆を執ることのできなかった気持ちと、やっとの思いで手紙を書いてくれたその気持ちを思うと、ありがたくて涙が止まらない。
折り惡しく、その手紙を開封して読んだばかりのタイミングで、さっちゃんから電話が入った。いつまでもメソメソしているいい年をした男のことを、さっちゃんはきっと呆れたに違いない。本当にばつが悪かった。
恭子にとって、スミレさんは初めての大親友だった。中学1年生というまだあどけない年頃ではあっても、「2人の出会いは奇跡だった」とスミレさんは書いてくださっている。そうして、それぞれの親の転勤に伴い、2人は絶望的に引き裂かれることになる。2人は知恵を絞り、話し合って、2人だけでアパートを借りて残るわけにはいかないかと親たちに懇願する。許されない。
2人で微笑ましくも「心の会」というものを作った。残された時間、クラスを愛し、花を絶やさなかったそうだ。2人で話して話して話して、「心の会」をそれぞれが新しい土地で広めていくことが自分たちの使命だという結論に辿り着いた。そこに、分かれて別々の土地に行くことの意味を探り当てたというのだ、まるで宣教師か修道女のように。
私は、子どもの友情の物語に過ぎないなどとは決して思わない。それどころか、恭子と30年近く夫婦として過ごし、恭子を傍らからつぶさに見ていて、ああ、この人との出会いこそが恭子の人生の原点だったのだと思った。まさに恭子は「心の会」を広める使命を感じながら人生を歩み続けたように思う。恭子の優しさ、恭子の人々に対する配慮、「自分の今なすべきことをしなさい」と、繰り返し続けたことばの源流はここにあったのだと思った。
いま、恭子とは別の時空で歩み始めた私の使命もそこにあるのかも知れない。私と恭子が、人間としては離ればなれになった意味を感じなくてはいけないのだろう。(つづく)