子どもが笑顔でいるため おかあさんが〝泣ける〟場所を
腸閉塞を併発するも無事に退院

いつ果てるともしれない苛酷な治療に、幼い潤君の体は悲鳴をあげていたのだろう。治療のたびに、副作用の激しい嘔吐と発熱が繰り返された。11月には、術後に腸閉塞を併発。幼い息子が苦しんでいるのを、理恵さんはただ見守ることしかできなかった。
1年間にわたる治療を終え、ようやく退院したのは、09年1月24日のことである。
「入院中は、同じように病気の子どもを持つ仲間にずいぶん助けられました。主治医や医療チームのメンバーにも恵まれ、私のブログに寄せられる応援コメントも大きな励みになりました。当時の私には、息子の命を救う以外のことは、何も考えられなかった。どちらかといえばネガティブ思考でしたが……いま思えば、私が一番、前向きに過ごせた1年間だったかもしれません」
再発、そして離婚 打ち続く災難のなかで
だが、喜びは長くは続かなかった。退院2カ月後の定期検診で、肝臓にがんが局所再発していることが判明。理恵さんと家族は、失意のどん底に突き落とされた。
「あのときは、『もう、この子を連れて家に帰ろう』と思いました。再発したら、どれほど厳しい状況かということもわかっていましたから……。潤が残された日々を楽しく過ごすためには、どうしたらいいのか。潤のために最後にできることは何なのか、そんなことばかり考えていました」
悪いことは、さらに続いた。再発が発覚して入院する前日、夫との間である問題が発覚。そのまま別居が始まり、離婚することになってしまった。潤君の病気の再発と、晴天の霹靂ともいえる家庭の崩壊。次々と襲いかかる災厄に、理恵さんの心は半ばフリーズしたような状態だった。
「入院中、主治医からはずっと、『離婚しないように』と冗談交じりに言われていました。子どもが大病をすると、離れてしまう夫婦も多い現実からの配慮でした。うちの場合、離婚の理由は別にあったのですが……。私は潤の付き添いで1日中病棟で暮らしていたけれど、主人が交代して病棟に1泊することは1度もなかった。いま思えば、潤を3度しか抱くことなくがんで急逝した実母と重ねていたのかもしれません。その意味では、子どもに向ける気持ちに、すれ違いがあったのかもしれません」
ただひとつ救いだったのは、主治医が「これは局所再発だから、僕らはあきらめない」と言ってくれたことだった。夫が去ったいま、潤が頼れる人間は、もはや自分ひとりしかいない。重い心を抱えながらも、理恵さんは再び心を奮い立たせるほかなかった。
タンデム移植による治療が効果をもたらす
潤君のがんの再発によって、理恵さんは「仕事と看護の両立」とい��新たな課題を突きつけられることとなった。
同院の規則では、小学生以下の患者が入院した場合、保護者が24時間付き添うことになっている。初発入院のときは介護休暇をとったが、再発は同じ病気とみなされ、区の規則では介護休暇をとることができない。そこで、2年目は病院から職場の保育園に通い、両親のサポートを受けながら仕事と看護の両立を図った。そうこうするうち、理恵さん自身が不眠や抑うつに悩まされるようになり、病欠に切り替えて看護に専念することになった。
名古屋大学から来た新しい主治医の方針で、再発治療では「タンデム移植」を行うことになった。タンデム移植とは、造血幹細胞移植と大量の抗がん薬投与を2回ずつ行う治療法。初発の際、あらゆる手立てを尽くしたにもかかわらず、再発したのを考慮してのことだった。
3月から抗がん薬治療と放射線治療を行い、8月に大量の抗がん薬を投与。その後、あらかじめ〝疎開〟してあった自家末梢血幹細胞の移植を行った。
10月、肝臓に局所再発した腫瘍を手術で摘出。その後、ラルス(遠隔操作密封小線源治療)による放射線の体内照射も行われた。12月、2回目の大量抗がん薬投与と臍帯血移植を実施。退院間際にノロウイルスにかかったこともあったが、翌10年4月、潤君は晴れて退院の日を迎えることができた。
「神経芽腫の場合、再発後に長期生存しているケースは少ないので、まだ治療法が確立していないのが現状です。その子に合わせたオーダーメイドで治療するしかないので、先生方も大変だったと思います。ラルスによる治療も、小児外科の先生のアイデアから生まれたもの。医療チームの皆さんは、潤を治すために、本当に知恵を振り絞ってくださいました。一期一会の出会いに支えられたからこそ、ここまでくることができた。本当に感謝しています」
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