仕事に全力投球したことで気持ちが楽になりました

取材・文●吉田燿子
発行:2015年1月
更新:2019年7月


舌の摘出・再建。そして壮絶なリハビリ

10月29日、舌の右半分を切除し、右太ももの筋肉を移植して舌を再建する手術が、9時間にわたって行われた。

幸い遠隔転移もなく、手術は成功裡に終了。主治医からは術後の化学療法を勧められたが、竹山さんはきっぱり拒否した。

「実は、母が25年前に胃がんの手術を受けたのですが、同じ病室に抗がん薬治療中の女性がいたんです。その姿が目に焼きついて、自分はがんになっても絶対に抗がん薬はやらないと決めていました」

術後のリハビリは苛酷そのものだった。医師からは「自分で舌を動かしなさい」と言われたが、リハビリの方法に対する具体的な指導はなかった。

「なんとか舌を動かそうとするんですが、移植した部分がどうしても動かない。鏡を見ながら歯の付け根に舌を当てて力を入れ、舌を動かして話す訓練をしました。人にリハビリを見られるのが嫌で、女房子供がいないときに、鏡を見てアイウエオと声に出す練習をしました。右太ももも30センチほど切開して筋肉をとったので、松葉杖がなければ歩くこともできない。人目を避けて階段を毎日上り下りし、筋肉を鍛えました。松葉杖なしで歩けるようになるまでには1週間ぐらいかかりましたね」

手術翌日から病室で仕事を再開

舌が動かないので、食事も喉を通らない。術後2カ月間は流動食が続き、80キロ近くあった体重は65キロまで激減した。手術翌日から仕事を再開。術後の激痛に耐え、体中を点滴や管につながれたまま、パソコン画面に向かった。

建築設計の仕事は様々な法規制が複雑に絡み合っているため、常に全体に目配りする必要がある。竹山さんの会社は設計監理を請け負っていたため、役所やテナント、地権者との利害調整やトラブル対応もしなければならない。プロジェクト完了まで気の休まることはなく、片時も現場のことが頭を離れなかった。

自己流のリハビリを続けていた竹山さんが、術後初めて、社員や関係者に電話をかけたのは翌年2月のことだ。

「自分のしゃべり方は変かもしれないが、他人に言いたいことを伝えることはできる。そう思い、各地に散らばっているメンバーに順番に電話していったんです。電話の向こうで歓声が上がるのが聞こえ、涙声で喜んでくれる者もいて……感無量でしたね」

社員と家族の生活を守りたい

手術から今年で丸6年が経過。体質が変わって適正体重になり、味覚も変化して、以前よりも味が薄く感じられるようになった。病気を経験して、「家族のために生きなければ」と、改めて痛感したという竹山さん。その思いは社員とその家族にも広がっていった。

「それまでは『会社を大きくしたい』という一念で仕事をしてきましたが、病気をしてからは、社員とその家族の生活を背負っていると強く自覚するようになりました。社員1人あたりの家族が4人とすると、合計70数名の生活の面倒を見ていかなければならない。そんな思いが強くなりましたね」

今後は、建築設計部門を運送部門を両輪として、相乗効果で会社を成長させていきたい、と抱負を語る。

「今は息子を武者修行に出し、甥っ子も会社の運送部のリーダーとして頑張ってくれています。息子たちが跡を継いでくれるまで、あと7、8年は頑張りたいですね」

そう言って、竹山さんは目を細めた。

近所の焼き肉屋で家族や運送部のメンバーと食事をする竹山さん

入院前の還暦祝いで。もう美味しい食事が取れなくなるかもしれないと家族が大好物のステーキをご馳走してくれた。竹山さんの隣が息子の綾さん後ろが甥の五十嵐円さんとその隣が奥さんの良江さん(08年10月19日ザ・プリンスパークタワー東京にて)
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