医療関係者は常に患者を励まし続けて欲しい 胃がんⅢ期の後に食道がんⅢ期。そのうえ奥さんもホジキンリンパ腫に。それでも明るく楽しく生きていく医療ジャーナリストの松井壽一さん

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2018年2月
更新:2020年2月


奥さんもホジキンリンパ腫に

松井さんが大病を患ってから松井家はしばらく平穏な日々が続いていた。そんなある日、今度は奥さんがホジキンリンパ腫を発症する。平成25年のことである。

松井さんは言う。「日本人のおよそ2人に1人ががんに罹り、およそ3人に1人ががんで亡くなると言われているが、なんと我が家は2人に2人ががんになってしまった」

そんな松井さんだが、奥さんがホジキンリンパ腫に罹って松井さんは病院を選ぶのも大事なことだと、改めて気づかされることになる。

それは紹介されて行った2つ目の病院でのことである。この病気は入院加療が必要で、今日病室を確保すれば3万円台だが、明日になれば5万円台になると言われたことだ。

「冗談じゃない」と、築地の国立がん研究センターに行くとなんのことはない、入院は必要なく通院でよいと言われた。

「一体あの病院はなんだったのか」と松井さんは今でも思う。

幸い国立がん研究センターでの治療が奏功し、奥さんは28年5月に治癒した。

今度は食道がんⅢ期と診断される

一方、松井さんだが平成27年の10月頃から飲食の際に物が飲み込みにくくなったというか、食道に違和感を覚えるようになった。とくにお寿司を食べていると食道に引っかかる感じが強くあった。

28年3月に同じマンションにいるかかりつけの医師に診てもらったところ、彼は4つの原因を挙げてきた。

そのうちの1つが食道がんで松井さんは咄嗟に「これだ」と、直感した。その医師から紹介された病院で検査をしてもらったところ、手術が必要だと都立駒込病院を紹介される。そこでステージⅢの食道がんで5年生存率は44.7%と診断される。

22年前に胃がんを宣告されたときと比べて「2人に1人ががんになり3人に1人ががんで亡くなる」と言われている現在、当時と比べてがんに罹ることが特別なことではないという背景もあり、松井さんにとっては今度の食道がんⅢ期の告知はそんなに驚くことではなかった、という。

松井さんは「22年前に胃がんの手術をした折には5年生存率は20%強だったのに、今度は2倍強あって心強かったですよ」と笑いながら話す。

4月5日に都立駒込病院に入院。

松井さんは「抗がん薬治療をやらずにすぐ切除してくれ」と主治医に頼むのだが、「とにかく抗がん薬で腫瘍を小さくしてから切除しましょう」と取り合ってくれない。

松井さんとしてはそれなら仕方ないと渋々その申し出を受け入れ、8日から1クール5日間抗がん薬治療を開始することになった。

しかし、抗がん薬治療の副作用はすぐに出た。何を食べてもまったく味がしないのだ。

さらに口内炎が出て口の中が痛くて歯も磨けない。

その上、腫瘍は小さくなってもいないことがわかった。

この結果を受けて松井さんは「こんな苦しい思いをするぐらいなら抗がん薬の2クール目は止めてさっさと手術してもらいたい」と主治医に訴えた。

松井さんの訴えに主治医も根負けして、抗がん薬の2クール目はやらず手術をすることに決まった。5月30日に再度都立駒込病院に入院。6月7日に手術と決まった。

手術以外の方法は考えなかった

右開胸開腹食道亜全摘、回結腸再建術が行われた。これだけでも大手術なのにその上、喉のリンパと声帯の外側にも腫瘍が見つかったとのことでそれを引きはがすのが大変だったと術後、主治医から聞かされた。

6時間半近くかかった大手術だった。

高齢の松井さんとしては手術以外の治療方法を考えなかったのだろうか。

「放射線治療などの説明がありましたが切ったほうが早いでしょう、と主治医にと尋ねる『早いです』との答えだったので、『それでは時間かける必要はありませんので手術でお願いします』とお願いしました。僕は体力には自信があったので、手術には十分耐えられると思っていましたよ」と事もなげに話す。

術後、松井さんは集中治療室に移され麻酔を施され人工呼吸器につながれた。

10日に一般病棟に戻ったが、なにしろ体のあちこちにカテーテル、ドレーン、チューブが10数本入っているので身動きもままならない。

とくにつらかったのは、喉に穴を開けられて細い管が入っていることだった。

「肺に十分な酸素を送り、痰を取るためだからと言われ我慢しましたよ」

退院は29日に決まったのだが、それまでに体に入っている管が1本ずつ減っていくのが嬉しかったという。最後まで残ったのが栄養剤と薬を注入する結腸チューブで、それが取れたのが8月末だった。

食事が大変だった。ゼリーのようなものが出され、子供だったら一口で食べてしまうようなものを15分かけて食べてくれと言われたことが印象に残っているという。

退院するころには餡掛けのような食事やお粥が度々出された。

「正直お粥は飽きました」と松井さん。

9月からすべて口から摂ることになったのだが、これがなかなか喉を通らなかった。

食事は今でも奥さんの倍ぐらい時間を掛けて食べている、と言う松井さん。

それと術後の後遺症は、昨年末まで小さな声しか出なかったことだという。松井さんは8年前から浅草の木馬亭で毎月8日間「ケンコウ奉仕」の芸名で健康漫談をやっているが、復帰した9、10、11、12月はお客さんには申し訳ないが小さい声しか出なかったという。

「手術の後遺症といえばそれくらいかな」と、今は大きな声で話す松井さんだ。

アマチュア漫談で客を沸かせるケンコウ奉仕の芸名を持つ松井さん(浅草木馬亭で)

明るい笑顔が家の中の太陽だ

胃がんのⅢ期と食道がんのⅢ期と2つの大きながんを経験した松井さんに、医療関係者に望むことを訊ねると「医療関係者は患者さんがどんな状態であっても患者さんを常に励まし続けて欲しいということです。そのことで患者さんがどれだけ元気づけられるかを知って欲しいと思っています」と話す。

松井さんは昭和40年頃から冬でもコートを着ない生活を今も続けている。

その理由を松井さんはこう語る。

「私の息子の同級生が冬でもランニング1枚に短パンで小学校に通っているのを見て『すごい。真似しよう』と思ったのがきっかけ。でもさすがに上半身裸というわけにはいかないのでランニングシャツとYシャツとスーツでひと冬通してみようと思ったら出来た。それからこのスタイルで通しています」

お陰で松井さんは冬でも風邪を引いたことがないという。

つい最近知った良寛さんの言葉に「楽しいことをするのではなく、することを楽しむことです」があるのですが、いい言葉だと思いますね。

2度のがんを経験して思うことは人間、気力がなくなったらダメだということですね。

それとどんな事態になっても慌てふためかないことですね。

「『明るい笑顔が家の中の太陽だ』という言葉が好きです。やはり笑顔、笑いが一番だと思いますね」

80歳を越えた今松井さんは「ここ、この瞬間」を明るく、楽しく、健やかに過ごしていきたいと思っている。

そんな松井さんは今日も「欣(よろ)びを悦(よろこ)ぶ喜(よろこ)び」を求めて、笑顔でみんなを笑わせている。

柴又での「寅さんファンクラブ」の忘年会で、寅さんの扮装で「男はつらいよ」を熱唱する松井さん
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