いつも一緒が当たり前だった人が、がんに奪われていったとき 小泉美紀さん(小児看護専門看護師)

取材・構成●「がんサポート」編集部
発行:2018年8月
更新:2018年8月


仕事を辞めて、ずっと一緒にいればよかった

遺影になると思って撮った写真

イレッサ、タルセバ、ジオトリフの耐性に対し、それを救うべく新たに登場した分子標的薬がある。それが2016年に承認されたタグリッソだ。ただし、タグリッソは、T790Mという遺伝子の変異が原因で耐性ができた場合にのみ効果を表す薬剤。

実は、耐性には、T790M遺伝子変異とは違う、別ルートで起こるものもある。つまり、T790M遺伝子変異が認められたものにしか、タグリッソは使えないのだ。

ジオトリフが効かなくなったとき、私はどうしてもタグリッソを使って欲しかった。タグリッソは、T790Mという遺伝子変異が出ないと使うことができないので、何度もお願いして検査してもらいましたが、とうとう夫のがん細胞からは一度も検出されませんでした。それでも私は、あのときタグリッソを試してほしかったのです。それが最後の望みでした。

今でも私は、夫にはあのとき本当は、T790M遺伝子変異があったのではないかと思っています。当時の検査方法は胸水から採取するものだったので、単に、検出できなかっただけなのではないだろうか、と。もし、あのときタグリッソを使うことができていたら、もしかしたらまた効いて、数年とは言わないまでも、あと数カ月は長く生きることができたのではなかっただろうか……と。

最後の3カ月間、夫は入院生活を送りました。最終的には認知症のような症状も出てきて、見ている私もつらかった。行ける日はすべて病院に通いながらも、仕事を続けました。今思うと、なぜあのとき、私は仕事を辞めて夫とずっと一緒にいることを選択しなかったのだろう……と、そこだけは後悔として残っています。

夫自身がどう思っていたかは、わかりません。でも、最後のほうは、ずっとそばにいて欲しかっただろうと思います。自分の気持ちをストレートに言う人ではなかったので、「ずっといて欲しい」と言われたことはなかったけれど、「帰っちゃうの?」と言われたことはありました。

治療費もかかるし、とか、老後の蓄えもまだないし、とかいろいろ考えて、結局、仕事を辞めることができなかった。でも、1人になって老後も何もあったものではありません。あのときスパッと辞めて、最後の時間をすっと一緒に過ごしていたらよかった……、とやはり思ってしまいます。

患者の家族が集まれる場を

夫が大好きだった京都に1人で行ってみた

最後の3カ月の入院期間、病院に対しても、いろいろ思うところがありました。先生は、忙しい中、毎日、少しずつの時間ではあったけれど様子を見にきてくれて感謝しています。私は看護師だから、どうしても看護師に対して厳しくなってしまうところもあるのかもしれませんが、日々のちょっとしたところに、対応の冷たさや、ずさんさ、ミスを見つけてしまうと、それが目についてイライラしてしまうこともありました。

また、患者の家族という立場になって初めて知った心情もあります。例えば、何かのときに少しでも夫を気にかけて欲しいとの思いから、看護師さんたちに菓子折りを届けたことも、何度かあります。それで何かが変わることはないとわかってはいても、です。

夫が亡くなって1年半が過ぎました。まだ精神的には全然落ち着いていません。夫は、がんと知ってから日記を書き始めていたようで、それが5冊ほど手元にあるのですが、まだ中を開いて読むことすらできません。たぶん、中を読むことができるようになるのは、あと5、6年先、私が定年退職して時間ができてからだと思います。

定年したら2人であれしよう、これしよう、と思っていたので、1人で生きていくというビジョンが私の中に全くないのです。急に先が閉ざされたようで、今はただ、仕事をして忙しくしているのが精いっぱいの毎日です。

ただ、定年退職して時間ができて、いろいろ考えられるようになったら、「患者の家族」として孤独を抱えて過ごした日々を、何か生かすようなことができたらいいな、と漠然と思っています。

患者の家族という立場も、悩みが多く孤独です。私のように、相談できる家族や友人がいない人もいるでしょう。最後の日々、話すこともできなくなった夫のそばでひとり夫を見つめるだけの時間。メールでもし合える仲間がいたらどんなに支えになったか。いつか、そういう「患者の家族」が集まって話をできるような場ができるといいな、と思っています。

タグリッソ=一般名オシメルチニブ

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