「栗田さんは私にとって『希望の星』です」 「余命1年」と宣告されてから18年9カ月。腹膜中皮腫患者の歩んだ軌跡
腹膜中皮腫が再発

「余命1年」を無事クリアした栗田さんだったが、職業訓練校を卒業したことで失業給付金は打ち切られ、蓄えも減少していたので、仕事を探さなければならなかった。
2001年5月に、神田にある会社に情報管理コンサルタントとして就職が決まった。迷った末、面接では自分ががん患者であることは伏せた。がん患者であることを正直に話せば、採用してもらえないと思ったからだ。
抗がん薬治療は断ったものの、栗田さんは半年に1度静岡県立総合病院でCT検査は受け経過観察を続けていた。
会社で働き始めて3年目の4月、小さな腫瘍が4~5個発見され、2回目の腹膜再発腫瘍摘出手術を受けた。37歳のときである。
「最初に腹膜中皮腫と診断されたときよりも、再発のときのほうがショックでしたね」
栗田さんは「術前に、以前のこともあるのでシスプラチンを投与しないでくれ」と、医師に頼んでいた。
「しかし、体調がおもわしくないので医師に問い質したんですが、『やってないよ』というんですよ。どうも姉の承諾を取って投与していたらしいのですね」
会社は4カ月休職して復職した。
この年の6月、栗田さんは4月に出来たばかりの「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」に入会する。
「僕はこの会に入るまでは中皮腫がどんな病気かも知らないし、中皮腫とアスベストがイコールだということも知らなかったです」
「私が中皮腫になった原因を辿ると、高校生のときに型枠工事のアルバイトをしていたので、そこで吸った可能性がありますね」
4回目の再発で肝臓に転移が
2回目の再発手術から3年7カ月後の2007年12月6日、3回目の腹膜再発腫瘍摘出手術を受け、会社は6カ月休職した。
3回目になると2回目のときと違って精神的にもだいぶ余裕も出てきて、「自分の中皮腫は大人しい中皮腫なので、放置しても大丈夫なのではないか」と思うようになってもいた。
2008年6月に会社を退職する。41歳のときである。
「仕事そのものはやりがいがあり楽しかったのですが、なにせ残業が多くて体力的にも弱っていたし、退職して十分に療養しようと思ったんです」
それに2006年3月27日に石綿健康被害救済法が施行されたことで、いままでかかっていた医療費が無料になり、療養手当(月10万円)と健康保険の傷病手当を合わせれば収入面では不安がないと考えたからだ。しかし、それは甘かったと後日、実感することになった。
「会社は『元気になれば、いつでも戻ってきてくれていい』と有難いことを言ってくれていのですが、2008年9月のリーマン・ショックでそんな話もなくなってしまいました」
栗田さんは2009年9月介護タクシードライバーとして採用され、社会復帰を果たした。
このタクシー会社の社長には自分の病気のことを包み隠さず話して、採用してもらった。介護ヘルパー2級の資格は取得していたが、会社から性格的に無理だと思われたのか、「介護タクシー」は一切やることはなかった。
普通のタクシードライバーを続けていた2014年12月16日に、4回目の再発摘出手術を受ける。このときは腹部の腫瘍と、肝臓に転移があったため、肝臓を握りこぶし大ぐらい切除した。
「このときは他臓器への転移があったので、『これはまずいな』という思いはありました」
タクシー会社は6カ月休職した。栗田さんがタクシー会社を休職して思ったのは、一般の仕事と比較して会社からのプレッシャーがなく、仕事への復帰が容易だということだった。
栗田さんは私にとって『希望の星』です

4回目の手術から9カ月後の2015年9月に受けたCT検査の結果では、「腹膜播種が増大しているのではないか」との指摘を医師から受けた。
ちょうどそのころ患者会から「中皮腫の患者さんの相談も増えてきたので、一度顔を出しみませんか」と誘いを受けた。
長期生存者である自分が会に参加することに何となく抵抗を感じていて、患者会から遠ざかっていた栗田さんだったが、残りの人生が短いことを感じ始めていたときだっただけにその申し出を快く受け入れた。
2015年10月出席した患者会で出会った30歳ぐらいの若い女性から、「栗田さんは私にとって『希望の星』です」と話しかけられた。栗田さんは自分が長期生存者であることに意味があるんだ、と初めて気づかされた瞬間だった。
「その方は5カ月ぐらいの赤ちゃんとご主人とで参加されていたのですが、腹膜中皮腫の患者さんだったんです」
栗田さんはそのときまで腹膜中皮腫の患者さんに会ったことはなく、「ましてこんな幸せそうな若い女性が、と思いました」
自分と会うだけでもこんなに人に希望を与えられるなら、と患者会活動にも積極的に関わるようになっていった。
しかし、病魔は容赦してくれない。
2016年4月の検査で腹膜播種が増大、肝臓3㎝×7個、肺1㎝×1個の腫瘍が見つかり、もはや手術は不可能とのことで抗がん薬治療(*アリムタ+シスプラチン)を勧められた。だがこれは、胸膜中皮腫の標準治療ではあっても腹膜中皮腫の標準治療ではない。
副作用に悩まされた経験を踏まえ、抗がん薬治療をすべきか迷った栗田さんは、セカンドオピニオンを受けるため別の医師の意見を聞いてみた。また、抗がん薬治療を受けたことのある腹膜中皮腫の患者の話も聞いてみた。
その結果、いま自活できているこの生活を手放す気にはなれなかった栗田さんは、2016年5月「いますぐには抗がん薬治療はしない」と医師に伝えた。
このときに「もはやこれまで」と覚悟もできた、という。
「中皮腫サポートキャラバン隊」を立ち上げ

「『もはやこれまで』なら、何かやり残したことをやっていこうじゃないか。それは長期生存者としての経験や知識が生かせるような活動ではないかと思ったんです」
そんなとき栗田さんは、アメーバブログで「悪性胸膜中皮腫と言われてどこまで生きれるかやってみよう!」というミギえもんさん(右田孝雄)の存在を知った。
「患者会とは関係なく『がんばって生きていこうぜ』といっているのはすごい、随分活きのいいのがいるじゃん」と栗田さんは思った。
実は6月28日に神奈川で催された講演会の中で、「これから中皮腫患者のピアサポートを全国で展開していきたい」という話をしていたのだ。ピアサポートとは、「同じ立場のもの同士の支援」という意味である。
7月11日に右田さんに会いに大阪に行き、意気投合。
9月に「中皮腫サポートキャラバン隊」を立ち上げ、今年(2018年)の3月まで北は北海道から南は鹿児島まで全国各地で講演会を実施した。タクシー会社は、「中皮腫サポートキャラバン隊」を立ち上げると同時に昨年9月に退社した。
この活動を各メディアが取り上げてくれ中皮腫患者のことが少しは世間に知られることになったと自負している。
栗田さんはいう。
「『中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会』は被害者団体としての色合いが強すぎたので、がん患者支援団体の色合いをもっと濃くしてバランスを取る必要があると感じていたんです」


厳しい状態でも希望は捨てない
「中皮腫サポートキャラバン隊」の活動を精力的に行っていた栗田さんだが、体調は今年になって深刻な事態になってきた。
4月に下血したのだ。下血はなんとか止まったものの、こんどは腹水が溜まり始めたのだ。
「腹水が溜まると、食事はまったく摂れなくなります。腹膜中皮腫の最後は腹水が溜まり始めて、腸閉塞になって亡くなるというのですよ。これはもう終わりだなと思いました」(栗田さん)
5月に静岡県立総合病院に入院して腹水7Lを抜いた。
6月1日には以前から計画していた「中皮腫100人集会 省庁交渉だヨ! 全員集合」と銘打った集会を国会内で開くことを予定していたので、これだけは是が非でも出席する必要があった。

その集会が終了した6月4日、第2回目の腹水を3.5L抜いた。
「1回目と2回目の間は3週間ぐらい。いま千葉に住んでるので、これから3週間おきに静岡まで通うのはしんどいな」と思っていた栗田さんだったが、2回目の腹水を抜いてから不思議なことに腹水が溜まらなくなったという。
「実は4月から丸山ワクチンを打ち始めたんですが、これの効果かなと思うこともあります。日医大の医師に話したんですが、『それはないだろう』と言ってはいますけど」
丸山ワクチンのおかげか否かは別にして、栗田さんにとって腹水が溜まらなくなったことはラッキーなことではある。
でも予断は許されない。
「いま肝臓の50%ががん化しています。肺にも顆粒状に20個ぐらいがんがあります。いつどのような状態で亡くなってもおかしくない体ですが、このように1人で外出できていることには感謝しています」
そう元気に話して、このインタビューを締めくくってくれた。
1999年12月にがん告知をされ、「余命1年」と宣告されてから18年9カ月。
その間に何度も厳しい事態を迎え、それを乗り越えてきた栗田さん。
今度もこの深刻な試練をうまく切り抜け、長期生存者として中皮腫患者の「希望の星」としてこれからも輝いてほしいと切に願っている。
*シスプラチン=商品名ブリプラチン/ランダ *アリムタ=一般名ペメトレキセド
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