膵がんステージⅣ「余命7カ月」の宣告。絶望から這い上がり完治した男の物語「ゴミになってたまるか」(前編)
8時間もかかる大手術だった
手術日がやって来た。川嶋さんはこれまで大病をしたこともなく、ましてや手術を受けたこともない。それだからか、川嶋さんには手術は怖いというイメージが常につきまとっていた。
だが1カ月以上続いた夜に高熱が出るといった症状や、それに伴う気力、体力の低下などからくる倦怠感もあり、川嶋さんは「早く楽にしてほしい」という気持ちが強くなってきて、手術に対する恐怖感も日々薄らいでいっていた。
執刀医は奈良昌樹さん(現在、大舘市立総合病院外科部長)で、手術は8時間もかかる大手術だった。
術後、集中治療室に運び込まれた川嶋さんは3月15日までの4日間集中治療室で過ごし、16日一般病棟の4人部屋に移った。
この頃、手術前74㎏あった川嶋さんの体重は56㎏ぐらいに減っていた。
「水を持つコップが重くて持てないような有様でした」
術後1週間経ってから、歩くためのリハビリも始まった。点滴の袋を下げたポールを杖代わりに病院の廊下を歩くのだが、ヨロヨロしてとても普通に歩くことも出来ない。
それでも、少しずつでも距離を延ばすために何とか歩く努力をした。それを支えてくれたのは、歩行訓練中に出会う若い看護師さんやリハビリ担当の女性たちの笑顔だった。
その笑顔が術後思うように体が動かず、気力、体力ともに弱っていた川嶋さんに「生きる勇気」のようなものを与えてくれたのだ、という。
川嶋さんは幸いにして合併症もなく、術後10日目の3月22日に第1回の抗がん薬*ジェムザールの点滴投与が始まった。
現在は術後の化学療法はジェムザールだけでなく、*TS-1が選択肢に増えたが、当時は膵がんの術後化学療法にはジェムザールの点滴投与を週1回・3週続け、1週休むという方法しか有効なものはなかった。
1週間後の29日に、2回目のジェムザールの投与があった。
1時間ぐらいで点滴を終えると、川嶋さんは自販機で500mlの水やお茶を3本、多い時には5本買って全部飲み干したという。
「副作用を少しでも軽減するためです」
そんな努力も空しく、体のだるさは言いようのないつらさで、少し食べれば気持ちが悪くなって吐き、その挙句、便秘になって夜も眠れない。下剤や、*ハルシオンの世話にもなることが続くことになる。
*ジェムザール=一般名ゲムシタビン *TS-1=一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム *ハルシオン=一般名トリアゾラム・睡眠導入剤
手術前74㎏あった体重は51㎏に
退院する日は3月30日と決まったが、退院に先立って川嶋さんと奥さんは川嶋さんの体から摘出した臓器の標本写真を見せられ、手術結果とこれからの食事や生活などについて主治医の袴田さんから説明を受けることになった。
その時、袴田さんから「長くて1年か2年。稀に5年くらいの人もいる」と告げられたのだった。この話を聞いてもその時の川嶋さんは「こんな大変な手術をしても、私の命はあと1年ぐらいか」と思うぐらいで、余命を告げられた正確な意味を理解することはなかった。
「それより、医師も看護師もいない家にこんな体で帰って、食事からなにからどうなるんだろうかという不安感のほうが先にありましたね」
退院してからも食事が一苦労だった。なにしろ胃を3/4も切除しているので、食事の量が摂れない。最初の頃は流動食すらスムースに飲み込めない。だから日に日に体力は低下していき、体重も51㎏ぐらいまで落ちてきた。

この頃、川嶋さんは抗がん薬の副作用もあって、心は相当に荒んだものになっていき、病院にいたとき以上に奥さんに当たり散らすことが多くなっていった。
「病院にいたときのように周囲に医師や看護師さんがいないことで不安感が募り、また自分の体が思うように動かないこともあったことが原因だと思いますが、今から考えると、カミさんには大変申し訳ない思いをさせたと思っています」
この時期の川嶋さんの言動が、奥さんを始めいろんな方に迷惑をかけたことを今は深く反省しているという。
退院3日後の4月4日、3回目の抗がん薬治療のため弘前大学附属病院に行った。
そこで袴田さんから、抗がん薬治療はどこで受けても同じなので「青森市民病院に移ってはどうか」と提案された。
「確かに月に3回、青森・弘前間を往復するのは大変だったので、その提案には異存はなかったのですが、家内のたっての希望で、県立中央病院に紹介状を書いてもらいました」
県立中央病院で主治医になった齋藤聡さんは「多少の延命効果はあるかもしれませんが、年単位での生存は難しいかもしれません」と正直に川嶋さんに話し、同意してもらった。
そして2007年5月から、県立中央病院での抗がん薬治療が始まった。(続く)
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