グリオーマ、悪性リンパ腫、骨髄性白血病と3度のがんを乗り越えられた理由 娘の20歳の誕生日までは死ぬわけにはいかない・後編
急性骨髄性白血病を発症し、移植をすることに
運命のいたずらとはこういうことを言うのだろうか。
M&A契約が成立した3週間後、高山さんは月に1度の定期検診の結果、急性骨髄性白血病だと告げられたのだ。
医師から「これは悪性リンパ腫の再発でもなく、グリオーマとも関係ありません。悪性リンパ腫の際に行った抗がん薬治療が原因となる2次がんで発病した急性骨髄性白血病です」と告げられた。
「今度は移植ですか」と尋ねると、「そうです」と答えが返ってきた。
あれほど拒否していた移植しか治療の選択肢がないことに、高山さんは大きなショックを受けた。しかし、最も大きなショックは、そのタイミングだった。
会社も手放し、2度のがんからも卒業して、これからは自分と家族のために時間を使って生きていこうと決めた矢先の発病に、「なんでこのタイミングなんだ」と、過去2度のがん告知のときには流れなかった涙が流れて止まらなかった。
「『パパはまた、入院することになっちゃった。ごめんね』と娘に伝えると『パパ、もう入院しないって約束したのに』と、この世の終わりのような泣き方をされ、妻と3人で号泣しました」
高山さんはビートルズの大ファンで幼い娘にもよく聴かせていた。そのメンバーのポール・マッカートニーが3月に来日するのでそのチケットを購入していた。ハワイに家族旅行をする予定も入れていた。
度重なる病気で、家族には寂しい思いやつらい思いをばかりをさせてしまったと考えた高山さんは、それを取り戻そうと、いろいろと計画を立てていた。それらがすべてパーになってしまったのだ。
「当時、娘は小学校低学年でした。本来、学校には授業と関係ないものは持参してはいけないのですが、先生の許可をいただいて、私の写真をポシェットに入れて通っていたみたいなんです。本当に寂しかったんだ、と後から聞いて涙が出ました」
入退院を繰り返していたため、保育園児から小学生にかけての娘とは充分に遊んでやることも出来ず、寂しい思いをさせていた。だから、これからは一緒に遊んでやることができる、家族で楽しい思い出をたくさん作れる、そう思っていた矢先だったから尚更のことだった。
「パパは絶対、病気を治して帰ってくるから、我慢して待っててね」
そう娘に語りかけるのが精一杯だった。
さい帯血移植を受ける前に、医師から諸々の合併症や移植関連死などについてのリスクの説明を受けて、「移植を受けた場合、僕の生存率は何%ぐらいなんですか」と医師に訊ねた。
すると医師からは「一般的には生存率は6割ですが、高山さんの場合、2次がんであることと、腫瘍細胞に染色体異常があることが予後不良因子となるので、生存率は多分、3割ぐらいです」と言われて、強いショックを受けた。
しかし、今回は生き残るための選択肢は移植しかなく、覚悟を決めるほかなかった。そして高山さんは娘と妻のためにも絶対に生き残る3割の中に入ると、固く心に誓い移植に臨んだ。
家族3人の写真がつらい闘病生活を支えた

移植の後の免疫反応や合併症、副作用は半端なものではなく、40度を超える高熱が何日も続いたり、夜中に胃にドリルを突き立てられるような痛みが襲ってきたり、食べ物の味が全くわからなくなったり、本当に日替わりどころか数時間替わりでいろんな症状が高山さんに襲いかかってきた。
移植を受けた先輩患者から「つらいのは最初の1カ月で、それを乗り切れば何とかなるから」とのアドバイスを受けて、それらのつらさに耐えた。
2月に入院した高山さんは7月に一旦、退院するが、10月までは発熱して入退院を繰り返す日々が続いた。
肺炎を起こして再入院したときのことだった。
急に下痢を起こしてトイレに行ったのだが、下痢が治らず、トイレから出てこられなくなってしまった。数十分後にフラフラしながら、何とか病室に戻ると今度は嘔吐。意識が朦朧とする中、ナースコールを押した。
看護師が手早く血圧などを測った後、病室に心電図モニターなどが運び込まれ、医師も続々と到着した。中には部長医師までいた。
「血圧が60ぐらいまで落ちて、血圧を上げる薬を点滴に追加したことまでは覚えていますが、その後の記憶は曖昧になって気づいたら翌日になっていました」
翌日、たまたま前の晩には駆けつけられなかった担当医から、こんなことを言われた。
「昨日来た当直の先生は、移植の経験がないため、『この患者さんはこのまま死んでしまう』と思っていたと思いますよ。でも自分は、移植患者さんをたくさん見てきたので高山さんは大丈夫だと思っていました」
「自分では死ぬなんてまったく考えてもいなかったので、そのとき医者から見ても自分が死の淵に立たされていたのだと後から、知らされて、本当に驚きました」
では高山さんが死の淵に立たされながらも、そこから滑り落ちなかったのは何故なのか。
実は、高山さんは病室のベッドの枕元に家族3人の写真を置いて、それを見ていつも自分自身に語り掛けていたのだ。
「その写真を見ながら、『このつらい治療を乗り越えれば、妻と家族が待つ家に帰れるんだ』、ただその1点だけをいつも考え、あらゆるつらいことや苦しいことを乗り越えてきました。もちろんその先には『娘の20歳の誕生日を家族で一緒にお祝いする』という人生の目標もありました」


「この病気の場合、再発するなら早い時期に再発することが多く、先生からは移植後2年再発しなければ、ほぼ大丈夫だろうと、言われていました。その移植から2年が、今年(2019年)4月14日に経過して、気持ち的にはほっとしているところです。現在は、ほぼ普通の生活が送れています。ただ、視野の左下1/4が見えないし、左脚にはまだ痺れが残ったままです。足の筋力もまだ弱いので、歩くのも不安定です。そうしたことから、人混みを歩くときにはヘルプマークをつけていますが、それでも何度も人にぶつかってしまいます。
さらに悪性リンパ腫の治療中に酷い帯状疱疹を発症して、いまでも後遺症として帯状疱疹後神経痛の強い痛みが残っています。その痛みを医療用麻薬で抑えながら生活している状態です」
それでもここ最近、体重も少し増えて、体力も回復してきたので、家族でハワイに旅行に行くこともできた。
「ほぼ人並みの生活は送れていますが、満員電車で毎日会社に通勤して1日仕事をするような体力はまだありません。ちょっと電車に乗って外出すると、疲れて翌日は寝込んでしまう有様です。いまはまだ体力を戻している途上にあります」
本当の幸せは当たり前の中に
3度のがんを乗り越えてきた高山さんに、その原動力は何だったかを改めて訊いてみた。
「がんを乗り越え、生きていかなければならない絶対的な理由を見つけることです。それが死の淵を彷徨(さまよ)う状態になったときに、死に転がり落ちず、生に踏み止まる最後の力になるのだと思います。僕の場合は、『娘の20歳の誕生日を家族3人でおいしいお酒で乾杯してお祝いする』ということでした。これは人生の目標と言っていいと思います。別に家族のことに限りません。
『病気が治ったら世界一周したい!』でもいいですし、『今の会社を辞めて起業するぞ!』でもいい。もちろん『親をヨーロッパに連れて行く!』でもいいです。その思いの強さが、『だから死ぬわけにはいかないんだ』と病気を乗り越えていく力になります」
そしてがんを経験してわかったこととして、こう続けてくれた。
「がんのような命に係わる病気をした場合、人生の優先順位がまったく変わってしまうということです。それまで仕事が優先順位の第一だった僕が、家族第一になったわけです。自分があと何年かで死んでしまうかも知れないとわかったときに、残された時間を何に使うべきなのかが鮮明になってくるのです。
自分の人生で何が本当に大切なのかが明確になり、それ以外のことは手放していくことになります。だから人生がシンプルになります。
がんになる前は、娘と過ごす時間は永遠に続いていくものだと思っていました。僕は、『墓石が目の前に現れた』と表現することがあるのですが、最初のグリオーマを発症して医師から5年生存率が25%と言われたときに、自分の墓石が突然目の前に現れたような感覚に捕らわれました。それまでは墓石、つまり自分が死ぬことなんか、はるか遠い先のことで、まったく視野に入らなかったのに、です。
人生の残り時間は限られているという事実に直面すると、人生の優先順位がガラッと変わります。そしてこれまで当たり前と思っていたことが、実は当たり前ではなく、奇跡的なことだということに気づかされます。
自分が生まれて今生きていることも、よく考えると奇跡的なことです。朝、病院のベッドではなく自宅の寝室で目が覚めること。身体が元気なこと。家族が共にいること。その日1日、病室に縛りつけられることなく、好きなところに出かけられること。おいしい食事を食べられること。
これまで当たり前だと思っていた日常の1つ1つが、本当は当たり前ではなく、ありがたいことだと気づきます。そして、日常の当たり前の中に、本当の幸せが潜んでいることに思い至ります。
人生100年なんて言われますが、人生は目の前の1日1日の積み重ねでしかありません。
とくにがん患者は、目の前の1日1日を精一杯、少しずつ墓石を押し返すように生きています。その積み重ねが、治療からやっと1年経った、2年を越えた、治ったと言える5年の節目まで来た、と続いていきます。そうやって毎日、押し返している墓石を、100歳のところまで一気に押し返すことはできません。
1日1日を積み重ねていけることが、当たり前でなくもの凄くありがたいことで、そこに本当の幸せが潜んでいると考えるようになりました」
長時間に渉るインタビューに元気に応えてくれた高山さんは、最後に読者へのメッセージとしてこう語ってくれた。
「僕は3回もがんになって、いろいろなものを失ってしまいましたが、何が自分にとって大事なのか、何が幸せなのかを気づいた今が一番幸せだと思います。本当に負け惜しみではなく、そう思います。だから、現在闘病中の皆さんも、『がんになったからといって決して不幸なわけではない。がんを乗り越えた先には、これまでよりもっと幸せな人生が待っている』と信じて、希望を持ってがんを乗り越えてほしいと、心から思っています」
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