アスリートフードマイスターの資格を生かした料理家の道に 若くして難治性の子宮頸部腺がん闘病から得たもの
人生で一番つらい日

手術日は9月25日と決まり、その4日前に入院した。
早坂さんはがんと告げられてから気分的にも落ち込んで、仕事も休んで家にいる日が続いた。
「長男は『ママはどうしたのだろう』と思っていたと思います。入院する3日前に長男には「ママ、病気になったのでしばらく入院して、そこで病気を治してもらって帰ってくるからね。少し長い間、ママはいなくなるからその間、仙台のおばぁちゃんが来てくれるから、いい子にして待っててね」と言うと、最初は「嫌だ」と言っていたのですが、最後には「僕も頑張るから、ママも頑張ってね」と言ってくれました」
手術の前日に早坂さんに嬉しい報告が届いた。それは、がんと告知された翌日に受験した食空間コーディネーター資格試験の合格の知らせだった。
早坂さんの広汎子宮全摘手術は体に負担の少ない腹腔鏡手術だったが、手術時間は10時間にも及んだ。
手術時間の長さでの体力の消耗もさることながら、麻酔から覚めてからが大変だった。
「目が覚めた瞬間から、猛烈な吐き気と、寒さで涙が出てきて、全身も痛くて、とくに手術されたお腹が痛くて、『痛い痛い』と泣いていたら、うるさかったのでしょう、4人部屋から看護師さんの隣の小さい部屋に移動させられ、一晩そこで過ごしました」
この日は、早坂さんにとって人生で一番つらい日になった、という。
子どもたちの運動会まで何とか退院を
術後3日目ぐらいまでは、吐き気や痛さでほとんど記憶がなかった。
術後5日目に歩行練習を始めたのだが、とにかくお腹が痛くて歩くことなんてとてもできない。でも、2日後に面会に来る子どもたちのためにも痛さに堪えて頑張った。
「病室内に12歳以下は入いることができないんですね。だからナースステーションの先にある面会広場までなんとしても歩いて行って、会いに来る子どもたちに元気な姿を見せたい一心で頑張りました」


子どもたちとの面会も果たして俄然、歩行練習に熱が入るようになった早坂さんに新たな試練が襲い掛かってきた。
それは子ども��ちと再会を果たした翌日の深夜のことだった。猛烈な寒気が襲ってきて、体温を測ると40度。感染症に罹っていたのだ。10月8日のことである。
早坂さんは術後、2週間経過していたが、未だに点滴が外れない。
流動食から固形物、排尿、排便訓練、歩行練習、すべてクリアしなければ退院できない。しかし、なに1つクリアできてないのに5日後に本当に退院できるのか、そう思った早坂さんは夫が持ってきた運動会のしおりを見て、何としてでも10月14日までには退院しなければと強く思った。
その運動会のしおりには、長男が年長組だけが走る紅白リレーのアンカーに選ばれていたからだ。長男にとって園内最後の運動会。何としても見届けたい。
だからあと5日で退院したいと、執刀医に直談判した。
「先生も長男と同じ年のお子さんがいらっしゃいます。ですから、私の気持ちはわかってもらえると思い、必死でその日までに退院したいと話しました」
すると執刀医は早坂さんの熱意にほだされたのか「とにかく来週、退院できるよう、歩行訓練も排便排尿訓練も頑張りましょう」と言ってくれた。
点滴をしつつ、口からも食事を摂るようになってみるみる元気になっていった。
「人間はやはり口から食べ物を摂らなければ、元気になれないのだと実感しました」
早坂さんの回復ぶりもあって、運動会の前日、退院の許可が出た。ただ、まだ完全に回復したわけではなく、まだ1週間ぐらい様子を見たほうがいい、とのことで翌週月曜日に外来に来るという条件付きで退院の許可が出た。
運動会当日は残念ながら、雨。園の隣りにある小学校の体育館で開催された。
区の福祉サービスで借りた車椅子で出席した早坂さんに周りは、優しかったという。
園長はテープで車椅子専用の席を作ってくれ、階段を子どもたちのパパたちは車椅子を持ち上げて運んでくれた。
長男がアンカーに選ばれたリレーは残念ながら負けてしまったけど、子どもたちの一生懸命な姿を見ることができ、皆の優しさに触れた運動会だった。
子宮頸部腺がんⅠb期リンパ節転移なし
術後、1カ月して最終病理の結果が出た。子宮頸部腺がんⅠb期リンパ節転移なし。
腺がんは、扁平上皮がんと比べて、再発・転移率も高く、難治性である。
主治医から「リンパ節転移はなかったのですが、脈管侵襲(しんしゅう)で怪しいところがあったので、再度検査します。ただ、脈管侵襲で引っかかったとしても最近の症例では化学療法をしてもしなくてもそこまでの差はない、という結果も出ています」と言われた。
「腺がんだったら化学療法はやると思ってください」と前に主治医から言われていて覚悟はしていたので、金髪のウィッグも買ってあった。
「最終的に先生に『どうする?』と言われたのですが、卒園式に入学式、化学療法をやれば両方出席できなくなる。やってもやらなくても結果は変わらないなら元気でいることを選びました」
会社には退院後、直ぐにでも復帰する予定でいたが、歩ける状態でもなかったし、なかなか体力も元には戻らなかった。
半年ぐらい休んでいたのだが、リンパ節を取っていて、リンパ浮腫になっていて痛くて脚が浮腫(むく)んだ。恐らく2~3年は休職できたのだが、この状態で復帰しても会社に迷惑をかけると思い、2017年12月末に12年勤めた大手損保会社を退職した。
術後2年目が山だなんて

退職した後、アスリートフードマイスターの資格を取った。
「子どもたちがサッカーをやっていて、それまでも食事には気を使っていたのですが、試合前には何を食べたら良いのか、また試合期間中はどういう食事をすればいいのか、捕食はどういったものがいいのか、ということをもっと詳しく知りたくて勉強を始めました。
普通の料理教室でもいいのかな、と思ったのですが、そんな料理教室は一杯あるので折角、アスリートフードマイスターの資格を取ったので、いまの教室を始めました」
「現在の体調は退院当初よりだいぶ良くはなったのですが、がんになる前の体調ほど戻ってはいません」
5年間は定期的に通院し、経過観察しなければならない。2年間は月に1度、病院に通って検査を受けたり、ホルモン薬を貰ったりしていた。
「ちょうど、2年検診が終わって、今は3カ月に1度、病院に通って検査をしています。執刀医の先生は面白い先生で検診が終わって、結果を訊くため前に座っていたのですが、先生は黙ってじっとパソコンの画面を見ているんです。『ええっ! 再発』と思ったら、『はいっ、大丈夫でした。少し溜めてみました』、とおっしゃるんです。『もう、やめてください』と思いましたよ」
「先生から『子宮頸がんは術後2年目が大きな山で、術後化学療法もしていなかったので、少し気にはなっていました。でも2年検診で大丈夫だったから、1つの山は越えたと思ってください』と言われました」
「それを聞いてもう、ほっとしました。『2年目が山なんて知らなかったです』と言うと、先生は『それを言うと不安になると思って言いませんでした』と話されました」
健康に生きているだけで有難い
早坂さんに「がんになって自分が変わったことは何ですか?」と訊ねてみた。
「自分は健康体で病気とは全く無縁だと思っていて、がん==死のイメージで、本当に遠い存在でした。
がんになる前はあれ欲しい、これ欲しい、子どもはこうなって欲しい、とかいろいろあったんですけど、健康に生きているだけで有難いことなんだな、だから1日1日を大事にしようと思うようになりました。
だから、夫や子どもたちともいついなくなっても後悔しないように接しようと思っています。例えば、子どもと喧嘩しても、前の自分ならそのときはそのままにしていて、帰ってきてから仲直りしていましたが、いまは喧嘩してもすぐに仲直りするようにしています。もし、何かあったら後悔すると思うので」
早坂さんはがんと言われてから食事も喉を通らなくなり気分も落ち込んで、入院するまでの2~3週間は自分の病気のことをネットや本で調べまくっていた。
「とにかく希望を見出だしたくて、同じ病気のブログを見つけて読んでいました。でも大半のかたが途中で亡くなっているのです。その中で1人、20代で子宮頸がんになっても、元気で生きているかたの本を読んでとても勇気づけられました。だから、私も『子宮頸部腺がんでいまでも元気でやっているよ』と現在、苦しんでいる人に伝えて、元気になってもらいたいとブログで自分のがんを公表しました。
私のブログを読んで、『元気をもらいました』と言ったメールをいただいたりして、少しはお役に立っているのかな、と嬉しく思っています」
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