プロミュージシャンを目指していた19歳に松果体腫瘍を発症 完治した今、父のように人を楽にしたいと鍼灸整骨院院長に
父から大学ノートを渡され闘病日記を綴る

2012年12月21日入院したその日に、今後の治療方針を藍原医師から聞かされた。
まず、腫瘍をある程度小さくするため*ICE療法を1クール行う。
化学療法後、免疫低下の回復を待って腫瘍摘出手術をする。
その後、放射線治療を約1カ月。放射線治療後、ICE療法を1クール。
再発予防のためにもう1クール。
「これらを乗り越えて問題がなければ1年後には退院できると思ってください」
「そう治療計画を説明してくれているときの藍原先生は本当に深刻そうな表情で説明され、このがんを乗り越えるのは大変なことだと、改めて実感させられました」
そしてこの日宮坂さんは父親から「闘病日記を書いたほうがいい」と1冊の大学ノートを手渡された。この日記には入院当日から退院した日までその闘病記録が克明に綴られている。
*ICE療法=イホマイド(一般名イフォスファミド)+パラプラチン(一般名カルボプラチン)+ペプシド/ラステット(一般名エトポシド)の3剤併用療法
つらい闘病生活の末、完治に

腫瘍を縮小するための最初のICE療法は、3日間かけて抗がん薬が投与された。幸いにもICE療法では、「副作用はほとんどなく、食欲も落ちなかった」という。
免疫能の回復を待って、約4週間後の2013年1月21日に松果体腫瘍摘出手術が行われた。
後頭部を開頭して腫瘍を摘出した手術は8時間近くに及び、ICU(集中治療室)でハッキリと目が覚めたのは術後1日目の夜中だった。
「腫瘍を摘出したはずなのに、視界が二重に見えたので、先生に訊ねると『時間と共に改善していくので安心して』と言われました」
術後2週間経過して放射線治療が始まった。50.4Gy(グレイ)の放射線量を28日間に分けて脳全体と背骨に照射する治療だ。
放射線治療後、再発予防のため2クール目のICE療法を行う。
「抗がん薬治療、手術、放射線と続いていたので怠(だる)さが強く出ました」
4週間が経過して免疫機能が回復してきたので最後に再発予防のため、3クール目のICE療法を行った。
「3クール目の抗がん薬投与の初日は、2クール目の初日よりも怠さを強く感じました。幸い吐き気はなかったのですが、食欲は全くなくなりました。3日目には抗がん薬の副作用で膀胱炎になって血尿が出ました」
血液検査、髄液検査、MRI検査、腫瘍マーカーなどの全てが正常な数値を示していた。
「体力も回復してきていたので、これで、やっと長い闘病生活に終止符を打つことができると嬉しかったですね」
2013年7月1日の退院の日に、宮坂さんは主治医からこう告げられた。
「このまま何も治療をしなかったら1年先に生きてる確率は数%もないくらい深刻な状態でした。だからここまで順調に回復できて本当に良かった。しかし、今後最低でも5年間定期的に検査して問題がなければ、完治と言っていいでしょう」
そう言われた宮坂さんだが、その5年をとうに過ぎ今年(2020年)の7月には7年目を迎えようとしている。現在は、年に1度、東京女子医大病院に定期検査に行き、血液検査、造影MRI検査を受けている。
気持で負けなければ治る見込みがある
退院後、昔のバンド仲間とバンド活動を再開したのだが、どうしてもその中に溶け込めなくなっている自分に気づいた。
「最初はそんな自分がおかしいのかな、と思ったりしました。この病気に罹り独りでいる時間が多くなったこともあり内省的になってもいましたし。ですからバンドの仲間たちとも距離が出来て息が合わなくなっていたのかもしれません」
プロミュージシャンを目指していた宮坂さんに転機が訪れたのはそんなときだった。
入院中、整骨院を営んでいた父は週2日の休みの度に、見舞いに訪れ、宮坂さんに整体を施術してくれていた。
「副作用でつらいとき、父に施術してもらっていると体が楽になっていくのがわかりました」
そのことを思い出し、自分も父のようにつらく苦しんでいる人を少しでも楽にさせる仕事に就きたいと、鍼灸(しんきゅう)専門学校に3年通って国家資格を取得した。
父が営んでいた整骨院の受付から始めたのだが、最初は訪れたお客さんに応対するのに言葉が震えて困ったという。
「長く入院していたこともあって他人と話す機会が少なかったことが原因かもしれません。とにかくお客さんと、なんとか話せるようにインタビュービデオなどを観て勉強しました」
そんな努力もあって2019年に横浜市あざみ野駅前への宮坂鍼灸整骨院の移転を機に、父に代わり院長に就任する。


現在、宮坂さんは自分が経験した松果体腫瘍は、希少がんのため情報が少なく、同じ病気に罹った人のために何かの役に立てればと、ブログを配信している。
最後にがん患者へのエールとしてこう結んだ。
「まずは気持ちで負けないで、と言いたいですね。それに負けなければ治る望みはあると思います。私の場合、負けそうになる自分を支えてくれたのは、主治医の先生は勿論のこと、看護師さん、家族、友人のサポートがあったからこそ、完治まで漕ぎつけることが出来たと思っています。ですから感謝の気持ちを忘れないことが大切だと思っています」
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