ぼ~っとして生きてたら今日1日がもったいないと伝えたい AYA世代の元教師が精巣腫瘍になって
入院中「夢ノート」にやりたいことを書きつける
副作用はつらく、このまま死んでしまうのではないかと何度も思った。
しかし、これまでの人生を見つめ直すいい機会だと考え、「夢ノート」と名付けたノートに、この治療が終了したら、これから自分がやりたいと思いついたことを全部書き出した。
「自分で会社を立ち上げる。東京に進出する。海外に留学する。学校をつくるとか100ぐらいそのノートに書きつけました」
「夢ノート」を書くようになったのは、同じ病室に前立腺がんで入院していた年配の患者のひと言からだった。
「その方とは『生きるとは何か』とか、哲学的なことをいろいろ話し合いました。そんな会話の中で『絶対後悔するから、やりたいことは生きてるうちにやったらいい』と話されたのです。その方の言葉が鮮明に残っていて、『夢ノート』にこれから自分のやりたいことを記しました。もし退院できたら『夢ノート』に記したことをやっていこうと思いました。その方はそんな話をした2週間後に亡くなりました」
中村さんの闘病生活を支えてくれたのが毎週のように見舞いに訪れてくれた友人や家族との会話だったという。
「本当にありがたいと思いました。つらい治療をしていると、友人たちや家族と話す時間がとても大切な時間に思えました。友人は牛丼買ってきてくれたり、母は手料理を届けてくれたりしました」
友人たちや家族の励ましもあり、つらかった抗がん薬治療を乗り切り退院できたのは、入院してから5カ月後の11月のことだった。
退院後の定期検診はしばらくの間1カ月に1度、現在は4カ月に1度、病院に出向いている。
「退院しても安心というわけでなく、定期検診に行くたびに、再発してるんじゃないかといった不安感は拭えませんね」
事実、主治医から悪性ではないといわれては言われてはいるものの、副腎に3.5㎝ぐらいの腫瘍がある。
自分のがん体験を伝えるために

退院後、オーストラリア留学や、東京で働くことなど『夢ノート』に記載していたことを次々実行に移していっていた。
「子どもに携わる仕事はしたい」と思っていた中村さんは東京に出て、国立市の中学で特別支援学級の補佐の仕事に就いていた。
ある日、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、小児がんの子どもたちのために院内学級をやっている教師がいることを知った。
感銘を受け、その教師に連絡を取り会いに行くなど、自分が体験した病気を通して「生きる大切さ」を伝えていける仕事はなんだろうと、さまざまな講演会に出かけて行ったという。
ある講演会で、不登校の子どもたちが生きにくさを感じていて、外にも出られなくなり「生きる価値」も見失っていることに気づかされた。
「自分のがん体験を通して少しでも力になれるのではないかと思ったことが、不登校支援サポーターを始めることになったきっかけです」
不登校支援サポーターを始めた中村さんだが、どのようにサポートを行っているのだろうか。
「小学校2年生の勉強の遅れから不登校になった子どもの例ですが、その子とは一緒に野球をやったりして、信頼関係を構築することから始めます。子どもがやろうとしていることは決して否定しないし、『これやりなさい』と決して強制もしません。
そこから少しずつ勉強を始めていくのです。その後、放課後の居場所授業を行っている所にその子を連れていったのですが、そこには自分と似たような子どもたちがいることで、他の子どもと一緒になって遊んだり食事をしたりすることで、自信を取り戻すことができました」
「不登校になった子どもにとって、ほかの子どもたちとの関わり合いが一番大切なのです。関わりが楽しくなると、その場所が楽しくなるので家に引きこもったりしません」
「がんになったことは自分からは言わないですが、相手が苦しい境遇にいるときなどに話すことはあります。小学1年生のてんかん発作がある子どもの場合、薬を飲まなければいけないのですが、薬を飲むことがつらくて飲まなかったときなど、病院でもらった薬のリストを見せたことがあります。『こんなに頑張っていたんだからお前も頑張れよ、ではなく薬ってしんどいよね、わかるよ』と話しかけます。相手のつらさに寄り添うことが大切だからです。そして『この薬を飲むことで確実によくなるのなら、飲むしかないよね』と語りかけ、『俺だってこんなにしんどい思いをしたけど、退院して動けてるんだよ』とその子に伝えました」
中村さんは現在、不登校の子どもの自宅訪問支援、電話相談、4月からは学校に行けない子どもたちや、集団に適応できない子どもたちのためのフリースクールを開講する予定にしているという。
最後に、がんに罹ったことで気づかされたことについて改めて中村さんに尋ねてみた。
「がんに罹ったことで、入院している間、『人は死ぬんだ』ということを本気で考えられるようになりましたね。私は過去に2回、死にかけたことがあります。1度目は自動車事故、2度目は東日本大震災。しかし、過去2回についてはあまり実感がともなっていませんでした。自分ががんに罹ってみて初めて死というものを本当の意味で捉えることができたと思っています。
『明日、死んでも後悔しないように、今日を生きなければいけない』ということをがんが教えてくれました。だから、生きることにより積極的になったように思います。ぼ~っとして生きていたら今日1日が勿体無いじゃないですか。『自分がやりたいと思ったことをやらないで生きていくのは勿体ない』と伝えていきたいと思っています」
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