ちょっとした目先のことに目を向け楽しむ 精神科医がS状結腸がん再発で余命宣告されて
クリニックを閉院する
青木さんは今年(2021年)2月、あおきクリニックを閉院した。
「この病気に罹ってもそれまでは、休み休みではありますが治療は行っていました。新規の患者さんはとりませんでしたが、いままでの患者さんの治療は行っていました。でも診察中に眠くなって意識が遠のくこともあったり、だるくて考えることも億劫になったりして、これはもうプロとしての仕事はやれないな、と思い一線から退くことを決断しました」
昨年11月頃から譲渡先を捜していたが、なかなか見つからず廃院にしようと思っていた矢先、幸いにも譲渡先が見つかり閉院することができ、現役を退いた。
私には青木さんに訊きたいことが2つあった。
その1つが、青木さんは何故、精神科医を目指したのか。
「中学時代から北杜夫や遠藤周作を読み始め、ユーモアの中にさりげなく光る生や死の問題、人間存在とは、思考するとは何か、と漠然と考え始めていました。精神科医を選ぶ大きな要因になったのが、叔父の原田憲一先生であり、島成郎(しげお)先生との出会いでした。
そして学生時代、夏休みに原田先生の外来陪席させていただいた。そのとき、原田先生がふと『精神医をやることはつらいよ。僕はいまだってつらい。でも精神科医は面白いんだよ』、と話してくださいました。一方、その夏に駒ケ根精神医医療センターという集まりがあり、島先生の講演がありました。その帰りに島先生と原田先生の運転手をしたことがありました。
お二人から『なんで精神科をやるんだ?』『大変だよ! その覚悟はできてるの?』、と矢継ぎ早に尋ねられ、しどろもどろになった覚えがあります。しかし、お二人の精神科臨床を垣間見たようで、貴重な時間でした。このようなお二人の話を車内という閉じられた空間でお聞きできたことは実に光栄でした。この夏の経験が精神医療をしようと決意した夏でした」
もう1つは何故、マジックに魅せられたのだろうかということ。
「ある日、デパートのマジックコーナーに立ち寄ってマジックを見て、『あっ』と思いました。瞬間に何かが変化する世界があることにビックリしました。精神科医の治療は決して革命的なやり方はなく、患者さんのお話を聞きながら、ひたすら辛抱強くやっていくものです。無駄だと思っていてもやり続けなければいけないところがあります。この薬を処方したら患者さんの症状が劇的に変わるわけではありません。そのような世界で仕事をしている私にはマジックで一瞬のうちに世界が変わる、そんな魅力に取りつかれたのです」
ちょっとした目先の目���が
余命宣告され、残された命を意識した青木さんは、まず「春までもつだろうか」と考え、「まず桜を見よう」と思ったという。それは以前外科の同僚と回診していたときのことだった。
患者が「先生、来年の桜を私は見られるでしょうか」と訊いてきた。するとその外科医は何を思ったか「○○さん、そんなの無理に決まってるでしょう。こないだ言ったじゃない」と言った。青木さんは「馬鹿か、こいつ。正直といえば正直なんでしょうが、少しは言い方を考えたらどうか」と思った。
その忘れがたい体験を思い出し、「ピンクのスニカーとピンクの靴下を履いて桜の木の下を歩こう」と決めた。そしてそれは達成できた。
次は、秋のイチョウ並木を黄色の靴に黄色のコーディロイを履いて歩きたいと思っている。
また青木さんは生来の食いしん坊で、抗がん薬治療中も食欲が落ちなかったのがせめてもの救いだったという。
「いまは生鮮食品を取り寄せては冷蔵庫にしまっているのですが、入り切れなくなって女房に怒られています。この間、九州の合馬(おうま)のタケノコで若竹煮やタケノコご飯を食べてたら、なぜか急に涙が……。やっぱり弱っているんですね。来年は、『桜は見られないかな、タケノコは食べられないかな』と思ってね」
精神科医だった青木さんが余命宣告を受けて、その気持ちをどう支えているのだろうか。
「さて、なんでしょうか。食べることへの執着なのか、季節の味わいというか、ちょっとした目先の目標でしょうか。悪性リンパ腫で闘病していた友人が、『青木さん、つらいとか、苦しいとか、痛いとか言ってもしょうがないんだよ。そう言ったからって良くなるわけじゃない。だから家族には言わない』って言って死んでいきました。彼の真意は家族を心配させたくないという彼独特の思いやりだったんでしょうね。私自身はとてもそんな我慢は出来ないようです。すぐ痛み止めを飲み、『痛いぞ!バカヤロー!』となってしまいます」
「俺より先に死ぬな」と叫ぶ

現役を退いたいま、青木さんは何を思っているのだろうか。
「『週1回だけでもいいから、うちの病院に来てくれませんか』、と頼まれたことも結構あるにはあったんですが、体調のことを考えると『今日は体調が良くないから休ませてください』、というのはまずいし、『中途半端なことはやるまい』と思い止めました。
これまでも『死にたい、死にたい』と暴れる患者さんなどいたりして、結構しんどいこともあったのですが、そこらへんは生来の〝ずぼら〟が功を奏して何とか乗り切ってきました。
しかし、精神科医を終えていま改めて思うことは、『私は何をしてきたのかなぁ』という慙愧(ざんき)の念ばかりです」
「精神科医としての最後の診察は、『もう死ぬことを決めたら楽になりました』という20年間診てきた患者さんでした。思わず『俺より先に死ぬな!』、と叫んで診察を終えました。私は余命宣告されても、未だに死への覚悟ができていません。だから、きっと患者さんが羨ましかったみたいです」
余命宣告を受け入れ、複雑に揺れる気持ちを隠すことなく話してくれた青木さん。その揺れる気持ちこそが、若い日の青木さんが問うた正直な人間としての存在の証(あかし)ではないだろうか。
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