病院のなかを明るくしたい。病気を機に歌い始めた病院コンサートは300回超 「余命2カ月」の危機をくぐり抜けた遅咲きシンガーソングライター・あどRUN太さん

取材・文●守田直樹
発行:2008年10月
更新:2019年12月

入院中に20曲を作曲

幸運にも、あどRUN太さんには抗がん剤が劇的に効いた。最初に弱い抗がん剤から試したが、翌日にはすぐ効果があらわれた。

「夜中の2時ごろだと思いますが、急に体が軽くなったんです。酸素吸入をして、抗がん剤を打つ針が刺さったことだけがわかるような意識状態だったのに、まるで仮面ライダーが変身するように体が軽くなり、驚いてナースコールを押しました」

集中治療室(ICU)に入っていたため、看護師は飛ぶようにしてやってきた。自分が良くなったことが信じられないあどRUN太さんは、うれしくて看護師さんにしがみついた。

「こっちは夢じゃないってことを確かめたいわけです。看護師さんをギューっと抱きしめると、人間のぬくもりが伝わってきて、ああ、自分は生きてるんだって実感できました」

翌日には、朝1番で公衆電話から妻に電話をかけた。もちろんベッドを離れられる状態とは思っていない直美さんは、驚いて声も出ない。

「もしもし」

「……」

「おはよう」

「どうしたん……?」

抗がん剤が効いて良くなったことを告げると、受話器の向こうの奥さんは言葉を詰まらせた。

「……」

受話器の向こうで涙ぐむ空気を察し、照れ隠しにあどRUN太さんはこう言った。

「すまんが、ギターもってきてくれんか」

しかし、苦しい闘病生活はそこからだった。髪は抜け落ち、口のなかには口内炎ができ、計るたびに体重は減り、90キロあった体重は70キロまで落ちた。

「夜9時に消灯で暗くなるでしょう。それから朝までが地獄なんです。ずうっと考えるんですよ、このまま死ぬかもしれんって。3日3晩泣きつづけたこともあります」

集中治療室を出て、個室に入ってからはギターが友達だった。調子がいい日にはギターを爪弾き、入院中に20曲も作った。

「さびしかったんでしょうね。看護師さんに『元気になられましたね』とか褒めてもらいたくて、詩を書いた紙をこれ見よがしに貼っておくわけです。会話ができれば、病気のつらさをつかの間でも忘れられるんです」

相部屋になってからは部屋でギターは弾けない。しかし、理解のある看護師長がおり、いつしか病院の談話室でギターを弾くようになったという。

退院後に最初に作った曲は「スイカ」

そこで知り合ったのが24歳の白血病の青年だった。

「音楽が好きで談話室に聞きに来てくれていたんですが、ある日、突然倒れてしまって……」

すると、彼の病室の前に大勢の患者が集まった。末期がんや白血病などの重症患者ばかりだったが、自分の病気のことを忘れて青年のために必死で祈った。

「ぼく��何か役立ちたいと思い、曲を作りました。病院の屋上に上がり、抗がん剤でしゃがれた声でテープに吹き込み、彼の枕元に置いておいたんです」

「人間ってすばらしい」という曲の誕生だった。

すると2日後、あどRUN太さんの病室へ点滴台を押しながら青年がお礼にやってきた。

「彼は意識が朦朧としているとき、オレのテープも聞いてくれ、歌詞のなかにある『がんばれ、病気なんかに負けるな』というフレーズが耳にこびりついて、生きたいと強く思ったと言ってくれました」

危機を脱した青年はその後、骨髄移植の機会を2度も直前に失い、3度目の正直で骨髄移植が成功した。 「いま、広島で営業マンとしてバリバリやっています。彼こそ奇跡の人ですよね」

あどRUN太さんも5月の入院から3カ月以上の闘病生活を経て、8月上旬に奇跡のように寛解して退院。季節が真夏へと変わった自宅に戻り、最初に作ったのが「スイカ」という曲だ。

母さんが スイカをくれた
半分ずつ 二人で食べた
「おいしいね おいしいね」
楽しそうに 笑顔で食べた
もうすぐ夏も終わる
スイカの季節も終わる
この夏いっぱいの おいしさと愛の 思い出 残して……

真っ赤に熟れた果汁たっぷりのスイカに夫婦2人でかぶりつく姿が目に浮かぶようだ。

「それまでスイカは種を出すのがわずらわしくて、嫌いだったんです。でも、妻が出してくれた三日月型のスイカをパカッと2つに割って。スイカの向こうに妻の笑顔が見えました。ああ、ここは家なんだと、オレは家でスイカが食えたんだと。涙がポロッと出ました」

退院1週間後に「退院御礼コンサート」を開催

写真:喜納昌吉さんとのジョイントコンサート
喜納昌吉さんとのジョイントコンサート
写真:コンサート終了後、ファンにサインん
コンサート終了後、ファンにサイン

退院して1週間あまりしか経っていない8月20日。まだ抗がん剤を打ちながらのしゃがれ声だったが、患者仲間へのエールと病院スタッフへの感謝の気持ちを込めて「退院御礼コンサート」を行った。それが病院コンサートの始まりだった。

「病院で落ち込んでいるとき、舌がんから胃がん、直腸がんを経て、今回肺がんで入院している女性Kさんと会ったんです。『あんた、私に比べりゃあ、蚊が鳴いとるようなもんじゃない』って言ってくれて。こういう方の言葉は、本当に勇気がもらえるんです」

このKさんに勇気づけられたあどRUN太さんは、何か自分にできることがないかと聞いた。

「本物の『花』を聞きたいわ」

「よし、わかった。任せろ」

喜納昌吉さんに面識などあるはずも無かったが、玉砕覚悟で沖縄へ飛んだ。オリジナル曲を聴いてもらった。

「お前、いい歌作るなあ。じゃあ8月6日にジョイントコンサートをやろう」

嘘のような申し出だった。

話はトントン拍子に進むが、特に広島にとって原爆が投下された8月6日は特別な日。会場の確保に不安があったが、広島厚生年金会館が借りられた。コンサート運営の経験などまったくない友人たちが準備委員会を作り、奔走してくれたおかげで2000人が集まる「広島祭り」という大イベントが成功した。

その前日。喜納さんの病院コンサートが開かれる噂が広がり、集まった観衆は500人。Kさんも心の底から嬉しそうに最前列で聴いていた。

それからほどなくKさんは、

「いつまでも病院のなかを明るくしてね」

と言い残してこの世を去った。

以来、病院コンサートは300回を超えている。

歌がはじまると「アッハッハ」の大合唱

山口県の小さな町のコンサートも佳境に入り、「笑おうよ!」の紹介に入った。

「ぼくが『笑おうよ!』と歌ったら、『ハハハ』と声を出して笑っていただけますか。『ヘヘヘ』でもなんでも結構ですので。ただ、前に笑いすぎてアゴが外れたおじいさんがいたので、それだけは気をつけてください」

会場は大爆笑。歌がはじまると「アッハッハ」「エッヘッヘ」と、小さなホールで大合唱が巻き起こった。

「この曲をみんなで歌い、少しは荒んだ世の中に笑いが増えればと思っています」

会場の中学生たちも大声で笑い、つられて記者もお腹の底から大笑いした。


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