20代でのがん体験を活かして、講演など新たなことにチャレンジ 子宮頸がんをきっかけに母との絆を取り戻せた

取材・文:吉田燿子
発行:2012年9月
更新:2013年8月

子宮全摘、放射線治療しかし職場復帰はかなわず

入院中にいつも見ていた東京タワーのポストカード

入院中にいつも見ていた東京タワーのポストカード。絶対に東京に戻るという思いが強かった

夕方、両親と電話で連絡をとり、大阪の実家に帰った。翌日入院し、05年1月26日、手術で子宮を全摘。転移が見つかった靭帯とリンパ節も切除した。

病理検査の結果はステージ2b。念のため、卵巣を摘出することを主治医に勧められた。だが、両親と相談して、卵巣はとらないことに決めた。いつか日本で代理母が認められれば、体外受精で出産できる日も来るかもしれない。そんな一縷の望みを託しての決断だった。

阿南さんが東京に旅立ったのは、退院から1カ月も経たない2月下旬のことである。

「東京で過ごした1カ月半が、人生の中で最高に輝いていた時間だった。あの場所にどうしても戻りたかったんです」

2月中旬から、東京の国立がん研究センター中央病院で放射線治療がスタート。だが、副作用の下痢は想像以上につらく、家と病院を往復するだけで、体力をひどく消耗した。職場に復帰したい一心で戻ってきたものの、ベンチャー企業での苛酷な勤務に耐えるだけの体力は、もはや残っていなかった。半年間の休職の末、断腸の思いで会社を退職。アルバイトをしながら大阪の実家で療養し、1年後、再び東京へ向かった。

06年、阿南さんは保育園を運営するベンチャー企業の採用試験を受けた。だが、履歴書に「子宮頸がん」の病歴を書くことはできなかった。経験もスキルもない上に、がんの治療歴があるとわかれば、確実に不採用になると考えたからだ。

配属先はベビーシッター事業部。わずか2名で、大量の仕事をこなさなければならない。過労が体をむしばみ、足がむくんで40度の高熱が出ることもしばしばだった。周囲と同様に残業や休日出勤をすることに限界を感じ、入社1カ月後、阿南さんは直属の上司に告白した。

「実は、子宮頸がんの治療を受けて、今も経過観察中なんです」

「ああ、そうなんだ。無理しないで、早く帰っていいよ」

それ以降、勤務時間は正午から午後9時までとなり、週2日の休みもとれることになった。だが、同僚からは「どうして阿南さんだけが早く帰れるの」という陰口も聞こえてきた。思い余って、職場にいる同僚全員にメールを送り、体を酷使できない事情を説明した。だが、理解してもらうことは難しかった。

「自分の存在を社会に認めてもらえないことが、すごくショックでした」

術後5年が経過した日運命の歯車が動き出す

自分のペースで、自分にしかできないことをやりたい──そう思って周りに相談したら、『応援するよ』と言ってくれた人がいたんです」。2年間勤めた会社を退社し、知人に資金を借りて、08年10月にイベ���ト会社のグローバルメッセージを設立。音大生の友人を集めて、イベント派遣やパーティーの企画運営などを手がけた。

そのかたわら、「自分の体験談を話すことで、同世代の女性を子宮頸がんから守りたい」と思い始めた。だが、再発の恐怖もあって、どうしても話の内容がネガティブになってしまう。そんなこともあって、講演活動には二の足を踏んでいた。

転機が訪れたのは、術後5年が経過した2010年4月9日のことだ。

「経過観察は、今日で最後です」

最後の診療が終わり、国立がん研究センター中央病院の外に出ると、街路樹と空のコントラストが不思議なほど鮮やかに見えた。

「本当に不思議でした。気持ち次第で、色ってこんなに違って見えるんだ、と思いました」

帰宅してテレビを見ていると、あるニュースに阿南さんは釘付けになった。地元の杉並区が、区民への子宮頸がんワクチン助成を始めたというのだ。

(これだ!)と直感し、杉並区にメールを送信。「ワクチンを広めるために、私の体験談がお役に立てないでしょうか」と打診したところ、3日後に区の保健所から連絡があった。

不思議な出会いは、畳みかけるように続いた。奇しくも区の子宮頸がんセミナーで、阿南さんは、最初に告知を受けた銀座のクリニックの医師と、6年越しの再会を果たすことになったのだ。この再会を機に、阿南さんに講演依頼がどんどん舞い込むようになった。

「実は、講演をすることについては、母が強く反対していたんです。顔や名前を出して病気を公表すれば、よけいにつらい思いをするのではないか、と。それでも、講演活動をすることに決めたのは、がんになってからの5年間で、命のはかなさを嫌というほど知ったから。このまま何もせずに死んでしまったら後悔するという思いが、とても強かったんです」

自分が若くしてがんを経験したことには、きっと意味がある。その確信が、阿南さんの背中を押した。講演のプレゼン資料を作っていくと、自分の心の中が整理されていく。その作業も、阿南さんの気持ちを前向きにしてくれた。

こうして、阿南さんは今年4月、日本対がん協会に広報担当として参加することになった。

「今はとても自由にやらせてもらっています。1人でできることには限界があるけれど、ここでの仕事は影響力が大きいし、新しいことにも挑戦できる。今は最高に楽しいですね」

講演会活動の様子。子宮頸がんに関する講演会でがん体験を話している

講演会活動の様子。子宮頸がんに関する講演会でがん体験を話している

中学校で学生を相手に「命の授業」をする阿南さん

中学校で学生を相手に「命の授業」をする阿南さん

「生きてるだけで丸儲け」母の言葉を抱きしめて

ご両親と。「すごく大事にされていると感じます」と阿南さん

ご両親と。「すごく大事にされていると感じます」と阿南さん

がん体験は、阿南さんの価値観を根底から変えた。だが、何よりも大きかったのは、病気を機に、母と娘の絆を取り戻せたことだった。

「うちは仲が悪い時期が長すぎたけれど、今は本当にいい家族。両親にも兄にも、すごく大事にされていると感じます。がんになってからは、親の命のはかなさも実感するようになりました。親には最後まで幸せでいてほしいし、自分にできることがあるなら人の役に立ちたい。そんな価値観を学生に伝えていきたいですね」

今は、学校での「命の授業」や、美容院でのがん患者の受け入れ促進、聴覚障害者向けの情報発信など、さまざまな仕事に取り組んでいる阿南さん。自分のがん体験を活かして新しいことにチャレンジできることが、楽しくてたまらないという。

「周りから見れば、たしかに私は『がんになって子宮も失った人』かもしれない。でも、今では『元は十分に取った』と思えるほど、すべてがプラスになっています。23歳でがんになっていなかったら、今の自分もなかった。手術直前に母から送られた、『生きてるだけで丸儲け』というメッセージの意味が、今になってすごくわかるんです」

がんになっても、絶対にあきらめないでほしい。そう語る阿南さんの表情は、午後の陽光を受けてきらきらと輝いていた。


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