舌がん3期を宣告されるも、舌の再建手術を乗り越えたフォトグラファー 人生観を覆させられたがん体験。そして今、最も大切なこととは──
手術の2日後、パニックに襲われる
がんの告知を、割合冷静に受け止めていた増元さんだったが、プレッシャーを感じなかったわけではない。告知の2日後、増元さんはなんと痛風を発症してしまう。左足の甲がパンパンに腫れ、痛みで歩くこともできなくなった。
「舌がんより痛風のほうが痛いぐらいでした。痛風の原因は酒や運動不足といわれていますが、がんになったストレスも影響したのではないか、と思います」
一方で、この経験を好機ととらえる、表現者としての本能が疼いていたのも事実だった。
「それまで、僕は作品の中で、死と向き合ってきたわけです。その意味では、これは死と直面する滅多にないチャンスといえるかもしれない。メソメソ泣いていてもしゃあない。この経験を作品に活かさなければ、と思うようになりました」
死と対峙する経験など、表現者としてそうそうできるものではない。そう気持ちを切り替えたが、不安から解放されたわけではなかった。
手術の2日後には、不安が高じてパニックに陥った。深夜3時過ぎ、なかなか寝付けずに悶々としていると、突然、闇が下りてきた。脈拍と呼吸が速くなり、泣きながら看護師に「家に帰りたい」と訴えた。夜明けまでの時間が無限に感じられた。
翌日、妻にそのことを伝えると、妻は増元さんを励まそうと、当時、生後半年だった娘の写真を持ってきてくれた。
「これは励みになりましたね。娘が成長した姿を見るまでは、絶対に死ねない。その思いが闘病の大きな支えになりました」
手術後にさまざまな後遺症が発症

手術にあたっては、舌の右半分と頸部リンパ節を切除し、腕の皮膚と血管を移植して舌を再建することになった。ステージ3という診断だったが、「今ならまだ、全身に転移する前に、手術でがんをとれるだろう」というのが主治医の診立てだった。
手術は8時間の予定だったが、1時間早く終了。予想より病巣が小さく、舌の切除部分が少なかったので、気道が十分に確保され、気管を切開せずに済んだためだ。手術後、主治医は増元さんにこういった。
「リンパ節もごっそり取ってしまいました。患部周辺のリンパ節だけ切除してもよかったんだけど、多めに取っておけば転移の可能性も減りますからね。まあ、若いから大丈夫ですよ」
気管を切開しなかったことは、術後の回復にもプ��スに働いた。術後3週間で退院し、リハビリのおかげで日常生活にも仕事にも支障はないが、後遺症は今も残っているという。
「1番は、滑舌(*)が悪くなったことですね。それから、舌を筒状にすぼめることができないので、歯につまったものが舌で取り出せない。切手をなめることや、ストローを使って飲むことも苦手になりました。ちょっと前までは、豆腐を食べようと舌の上に乗せても、首を回したり振ったりしないと、うまく飲み込めなかったんです」
首右側のリンパ節を全摘したため、そこがむくんだり、しびれたりする。そのため、パソコン作業で同じ姿勢を続けていると、首が固まって動かなくなってしまう。首や舌の運動をする20分間のリハビリは1日3回と決めているが、怠ければ翌日に首が重くなったり、舌が回らなくなったりする。
「以前に比べて、猫舌になりましたね。味覚はあるんですが、舌の先だけでなく口の中全体で味わわないと、味がわからない。おかげで、料理の味付けが雑になりました」
*滑舌=なめらかにはっきりとしゃべること
仕事が楽しくてしかたがない

現在は月1回の検査と毎日のリハビリを継続中。今年から仕事も再開し、社会復帰を果たすことができた。病気を機に、仕事の仕方も変わったという。
「病気になって1番不安だったのは、『このまま仕事がこなくなるかもしれない』ということ。だから今は、仕事を依頼されるのが素直にうれしいですね。以前は多少、無理な注文をされると、若い編集者に怒ったりするイヤなカメラマンでした(笑)。でも、今はすごく人当たりのいいカメラマンになりましたね。全然不満がないどころか、妙に吹っ切れちゃって、撮影スピードも速くなったんです」
そう増元さんは語る。商品撮影も、以前は1日で200点が限界だったが、今は300点でも撮影できるように。
「痛風の改善のため減量して体重が10キロ減って体の切れがよくなったのと、『どうやって撮ろうか』と悩む時間がなくなったからでしょうね。前は『服を200着撮影してくれ』と言われると、『ああ、手間だな、やだな』と思っていた。でも、今は目の前の仕事に集中できるので、時間がたつのが早いんです。仕事が楽しくなった分、効率もよくなったんでしょうね」
とはいうものの、気になることがないわけではない。それは、周囲の人から自分に向けられる視線だ。
「知り合いに会うと、『がんになったんだってね』と、憐れむような目で見られるんです。まるで、死んでいく人を見ているような、切羽詰まった目で……。でも、ちょっと待って。いつかは死ぬとしても、別に今日明日、死ぬわけじゃない。その間にあなたのほうが先に事故で死ぬかもしれないよ、と言いたくなりますよね」
「存在への不安」ががん経験により解消
病気になって変わったのは、日々の仕事のやり方だけではない。作品制作のテーマや動機も、大きく変わろうとしていた。
昨年10月の個展は予定通り開催できたが、どこかしっくりしないものが残ったという。がんとわかる前に立てた写真展の構想が、手術後の気持ちとは乖離していたからだ。
「退院したとき、『今、自分が伝えたいのは、こういうものではないんだよなあ』と思ったんです。今までは、自分個人の存在に不安や疑問を感じ、それが創作意欲にもなっていた。でも、理由もへったくれもなくギャンギャン泣いている娘を見ていると、自分とは何ぞや、存在とは何ぞや、と悩むのが馬鹿らしくなったんです。娘からみれば、父親である自分は絶対的な存在。それに、がんでこれだけ痛い思いをしているのに、自分の存在が幻とは到底思えない。だから、悩まなくなりましたね。ある意味、答えが出ちゃったというか」
それまでは健康だった分、死や生をどこか観念的にとらえているところがあった。しかし、病気を経験することで、死や生が「観念」ではなく「実体」として感じられるようになった。
「こういう状況を経験しながら、みんな生きているんだ。ああ、自分は生きているんだな、と思えるようになったんです」
増元さんは入院中、手術痕や仕事中の看護師、散歩中の風景などにファインダーを向け、ひたすら心象風景を撮り続けたという。次回の個展では、自分の病気や娘の出産、父の死などを題材にしながら、新たな切り口で「存在」を表現するものにしたい──。そう、抱負を語ってくれた。
がんを経験したことは、増元さんの人生観を根底から揺さぶるきっかけとなった。病気になって、人生の優先順位も大きく変わったという。
娘が成長する姿を見届けたい

「以前は『仕事、制作、子供』の順に優先順位が高かったんですが、今は『子供、仕事、制作』の順に変わりました。幸い編集部も、育児と仕事の両立に理解を示してくれています。今後は、医療ライターであるカミさんのバックアップに回り、子供と接する時間を増やしたいと考えています」
そう語る増元さん。目下、1番の願いは、「娘の成長する姿を少しでも長く見届ける」ことだという。
「先月、親父が孫やひ孫に囲まれて死んでいくのを見て、『もうちょっと欲張って生きていきたいな』と思うようになりました。あと、どれだけ生きられるかわからないけれど、いつ死んでもいいように、しっかり生きていきたい。限りある時間を意識することで、人生の充実度はかえって増したような気がします」
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