乳房の異変を誰にも相談できなかった3年間の苦悩を語る乳がんサバイバー 弱者になった自分を認めた今、怖いものは何もない
主治医への不信そして信頼の絆へ

この時期、佐々木さんは、主治医とのコミュニケーションにかなり苦しんでいた。
「『先生の話が聞きたい』と看護師さんに訴えてもなかなか来てくれないし、抗がん剤治療がいつ始まるのかも教えてもらえない。忙しいせいだろうか、それとも、私の病状が進行しているからだろうか──。疑心暗鬼と不満でいっぱいでした」
とくにショックだったのが、入院中に主治医に言われた一言だった。
「佐々木さん、骨にがんがあるということは、どこにがんがあっても不思議ではないからね」
藁にもすがる思いの患者を断崖絶壁から突き落とすような、冷徹な言葉。首の痛みを訴えているにもかかわらず、退院を急かされたことも、主治医への不信を助長した。
「もし、あのとき先生の言うままに退院していたら、今の自分はなかったと思います」
佐々木さんは、そう振り返る。
主治医との信頼関係が築けずに苦しんでいた佐々木さんを支えたのは、整形外科医の存在だった。
「放射線治療をすれば、3カ月で白い骨ができる。大丈夫だからね」──その温かみのある言葉が、不安におののく佐々木さんの心に沁みた。放射線治療を受けた結果、2月下旬に撮影したレントゲンには、第4頸椎のところに再生した白い骨がくっきりと映っていた。
このように、病気と闘う佐々木さんの真摯な姿勢が、主治医にも通じたのだろう。このころ、佐々木さんは主治医から、放射性同位体「ストロンチウム89」による骨転移治療を提案されている。これは、骨に吸収されやすい性質を持つストロンチウム89を体内に注入し、骨の痛みを改善するというもの。そして、立川の災害医療センターでストロンチウム89による治療を受けたところ、骨の痛みも限りなくゼロに近づき、佐々木さんはホッと安堵の吐息をもらした。
「乳腺外科の先生との関係が変わり始めたのは、このときからです。先生は無口な方で、うまくコミュニケーションがとれないのが悩みでした。でも、T病院ではできない治療をあえて勧めてくれた。それがきっかけで、先生を信頼することができるようになったんです」
入院見舞いの延べ人数564人

放射線治療の終了後、2010年1月上旬に抗がん剤治療がスタート。4週間に1回ずつ、毎回約2週間入院して薬剤の投与が行われた。治療中は病室に裁縫道具を持ち込み、リハビリも兼ねて編み物や刺子を楽しんだ。手術、放射線治療、抗がん剤治療を含めて、入院日数は175日に及んだが、見舞いに訪れた知人や友人の数は延べ564人。佐々木さんの交友関係の広さがうかがえる。
「入院中は本当にいろんな人に支えられましたね。おかげで気持ちも明るくなり、前向きに過ごすことができました」
抗がん剤投与は全8回の予定だったが、経過が良好なため、6回で終了。8月から、TS-1(*)の25ミリグラム投与による治療が始まったが、今年3月から20ミリグラム投与に切り替えられた。腫瘍マーカーは0を保ち、足の数カ所にあった骨転移も、今は消滅しているという。とはいえ、足の痛みはなくなったわけではなく、今も松葉杖が欠かせない。
家族に見守られ、自宅で療養しながら、民生委員やボランティアの活動に余念がない佐々木さん。風呂の掃除だけは夫が手伝ってくれるが、家事はほぼ自分でこなしているという。
「今年の正月、夫に『私、確か余命5年だったよね』と聞いたら、ポロッと『ちがうよ、3カ月だったんだよ』と漏らしたんです。私だけが何も知らなかったんですね。私が今、元気でいられるのは、先生たちや家族、お友達、それにブーゲンビリアの人たちのおかげです」
*TS-1=一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム
がん体験で怖いものがなくなった
佐々木さんが知人の紹介で、NPO法人ブーゲンビリアに入会したのは、昨年2月末のこと。ここで、がんについてのさまざまな知識や情報を学んでいる。
「死なないために正しく医療を行っていくこと、自分の医療チームを作り、信頼できる先生たちに素直に気持ちを伝えて最善の治療をめざすこと、がんを勉強して自分の感情をコントロールすること、泣きたいときは大声で泣き、社会の役割を果たしていくこと──。ブーゲンビリアの活動を通じて、大切なことをたくさん学びました。ここで出会った人たちは折にふれて声をかけてくれる。それが私には、とてもプラスになっています」
退院後しばらくして、民生委員の仕事と「ふれあいサロン」も再開した。サロンを訪れる高齢者が増えたこともあって、近々、2軒目を立ち上げる予定だという。
「がんを経験したことで、怖いものがなくなり、人生が変わりました。今思えば、病気のことを誰にも言えなかったのは、素直さがなかったから。病気のことを打ち明けてしまったら、負けを認めたことになるような気 がしたんです」
大企業で人材育成を任され、社会の第1線で華やかに活躍していた自分。その自分が、乳がん患者という"弱者"になったことを認めるのはつらかった。だが、友人や知人に支えられて闘病生活を送るうちに、頑なな心がほどけ、ありのままの自分を受け入れられるようになった。今、佐々木さんは、がん体験を自分の「使命」と受け止めている。
もう1度カジノでバカラを楽しみたい
「これからは自分の経験をオープンに伝えて、患者さんのサポートのため、できる限りのことをしていきたい。高齢の患者さんのなかには、家に閉じこもってしまう人もいますが、そんなふうに引っ込んでいたら、自分自身を失くしてしまう。そういう方を外に引っ張り出すためのお手伝いもしたい。皆さんに元気をもらいながら、元気を与えたいと思っています」
今、何も怖いものはない、という佐々木さん。その笑顔には、紆余曲折を経て心の安定を手に入れた人ならではの、穏やかな自信が感じられる。
「家族には『延命治療はいらない』と伝えてあります。でも、母の没年である93歳までは生きたいですね。もう1度カジノでバカラなどを楽しみたいし、寝台特急『カシオペア』にも乗ってみたい。今の住宅ローンが80歳で終わったら、海外にも行きたい。人とのコミュニケーションを楽しみながら、笑って生きていきたいなと思っています」
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