治療法の選択で心揺れた日々。情報の渦のなかで決断 子宮頸がんのつらい治療と後遺症を乗り越え、レストラン開店の夢を実現 料理研究家・パンツェッタ貴久子さん
初回の投与の後で「もう抗がん剤はやめます」
とはいえ、すべてが問題なく進んだわけではなかった。病理検査で、リンパ節転移が1つだけあることが発覚。このため、引き続き、化学療法と放射線療法が行われることになった。
この決定は、「手術すれば治る」と信じていた貴久子さんを大いに落胆させた。
「自分では、抗がん剤と放射線治療の代わりに、全摘手術を選んだつもりでした。だから、せっかく手術をしたのに、ほかの治療もしなければならないことが、すごく嫌だったんです」
このとき、貴久子さんの脳裏には、ある知人の姿がちらついていた。その人は末期がんを患っていたが、治療をやめ、食事を玄米食に変えたところ、がんが消えてしまったのだという。
「知人にこんな人がいます。私も、抗がん剤はやりたくありません」――そう訴えたところ、主治医はこう答えた。
「そうやって治る人は、6000人に1人ぐらいですよ」
確率6000分の1じゃあ、仕方がない。覚悟を決めて、抗がん剤と放射線の治療を受けよう――貴久子さんは腹を括った。
翌08年2月、シスプラチン(一般名)による抗がん剤治療と放射線治療がスタート。抗がん剤投与が6回、それと並行して放射線治療が1カ月半にわたり行われた。
病室に本やDVDをたっぷり持ち込んだが、いざ治療が始まると、そのつらさは想像をはるかに超えていた。治療中は、脱毛や食欲不振、吐き気などの副作用に悩まされたという。
「とくに、初回の治療がすごくつらくて。最初の投薬後、『もう抗がん剤はやめる』と騒いでしまいました。ジローさんも病院に呼ばれ、先生に説得されて、なんとか続けることになったんです。冷静なようでいて、苦しいときや痛いときは、つい動物的に反応してしまうんですね」
病床で紡いだレストラン開店の夢

当初、貴久子さんは病気のことを、あまり深刻にはとらえていなかったようだ。
「心配してもしなくても結果は一緒。なるようにしかならない、と思っていましたから。ジローさんが仕事でとても忙しかったので、病院へもずっと1人で通っていました」
それよりも、気にかかったのは仕事のことだった。主治医に「立ち仕事は控えるように」と言われ、1番の生きがいだった料理教室も、泣く泣くあきらめざるをえなかった。気持ちのハリを保つためにも、新しく打ちこめることが欲しい――貴久子さんは退院後に、イタリア料理のレストランを開くことを決意。入院中���ら料理教室のスタッフに頼んで店の物件探しを始めた。
「考え込むと、どんどんよくない方向にいってしまう。考えてもしようがないことでくよくよするよりは、別のことを考えたほうがいいなと思ったんです」
そんな貴久子さんを支えたのは、家族や友人、スタッフだった。ジローラモさんも、多忙なスケジュールの合間を縫って、貴久子さんのもとに駆け付けた。
「深夜1時ごろに見舞いに来たり、突然クリスマスツリーを持ってきてくれたり。ジローさんは口で励ますタイプではないのですが、ちょっとした気遣いがうれしかったですね」
友人もかわるがわる見舞いに来ては、スープやおはぎ、パジャマなどをふんだんに差し入れてくれた。
「おかげで、やけに華やかな病室になってしまって。『これだけ自分の世界を作れるなんて、いいわねえ』と、掃除のおばさんに感心されてしまいました」
ジローラモさんからトイプードルを贈られて

3月に退院し、自宅での療養を開始。だが、入院前と比べると、体力の低下には予想以上のものがあった。
「以前は、2週間に20クラスの料理教室をこなしつつ、イタリア出張や取材、撮影などでスケジュールをびっしり埋めていました。『疲れる』なんて言う人は気持ちがたるんでる! と当時は思っていたんですが、今になってみれば、『疲れる』ということは確かにあるなあと……(笑)」
体力低下とともに、更年期障害にも悩まされるようになった。化学療法の後遺症で卵巣の機能が低下し、女性ホルモンのバランスが崩れたためだった。
「変にイライラしたり、恥ずかしくもないのに赤面したりと、ホットフラッシュの症状が出るようになりました。先生からは予告されていたし、予想していたほどひどくはなかったので、冷静に受け取めましたが」
ホルモンパッチを貼り、ホルモン補充療法を行ったところ、症状は改善。現在も、心身の不調を感じたときは、ホルモンパッチを貼って体調維持に努めているという。
このほか、日常生活でもさまざまな工夫をしている。食事を玄米食に変え、低速回転ジューサーで作った野菜ジュースを愛飲するようになった。
「低速回転ジューサーで作ったジュースは、抗酸化作用のあるファイトケミカル(植物栄養素)や酵素を殺さないので、体にいいらしいんです」
また、リンパ浮腫を予防するため、腹部から足先までを覆うエアーマッサージ器を愛用。遠赤外線ドーム型サウナも購入し、体を温めて疲れをほぐすために利用しているという。
闘病を機に、新しい家族も増えた。トイプードルのビンバちゃんだ。
「うちにはブラッコイタリアーノ種の大型犬が2頭いるんですが、療養中は他所に預けてしまったので、『1人では寂しいだろうだから』と、ジローさんが連れてきたんですね。それで、お腹を切って痛いのに、犬の世話をしなくちゃいけなくなったんです(笑)」
そして、08年10月、貴久子さんはついに念願のイタリア家庭料理店をオープンさせる。店の名前の「コチネッラ」とはイタリア語で「てんとう虫」を指し、ヨーロッパでは幸運の虫と信じられているという。母から娘へと、代々、自家製の手打ち麺や秘伝のパスタソースが伝わっていく――そんな温かみのある家庭料理が、「コチネッラ」のコンセプトだ。
体によくておいしい料理を食べてもらいたい

2010年で開店2周年。だが、すべてが順風満帆だったわけではない。リーマンショック後の不景気に直撃され、料理人との意志の疎通にも苦労した。
「正直、開店を急ぎ過ぎたかな、と思うところもあるんです。思うように体が動かないのに、未経験の仕事を始めてしまった。今思えば、焦らずゆっくり休んで、開店を1年ぐらい遅らせたほうがよかったのかもしれない。そんな反省もあって、今年からは、店の方向性を変えようとしているところです」
では、貴久子さんがもともと目指していた店作りとは。それは、「抗酸化作用に優れた、体によい料理を提供する店」だ。だが、店の根幹ともいえるこのコンセプトが、以前の料理人とはかみ合わなかったのだという。
「今のスタッフは、その思いをわかってくれているはず。体調も回復してきたので、本来やりたかったことを、もう1度やり直したい。そう思って準備を進めているところです」
2011年2月から、ランチタイムには貴久子さん自身が厨房に立つ予定。腕によりをかけて、有機野菜にこだわったランチを提供したい、と思いを語る。今号が出るころには、厨房で料理に腕をふるう、貴久子さんの元気な姿が見られることだろう。
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