がんと歩んだ6年間は、深い絆で結ばれた2つの魂による巡礼の旅のよう 母子二人三脚で離婚、乳がん、再発と闘う
「お母さん、厳しい状態になっちゃったんだ」
これからは、さらに苛酷な闘病生活が待っている。それを乗り切るためには、5歳の娘にも事実を伝えておかなければならない。中野さんは覚悟を決めて、娘にこう打ち明けた。「お母さん、厳しい状態になってきちゃったんだ」――娘の目からポロポロと涙がこぼれた。まだ就学前の娘が非情な現実と向き合うのを、中野さんは悲痛な思いで見守るほかなかった。
ちなみに中野さんは、娘が3歳のころから病気について、伝える言葉を選びつつ、なるべく正直に伝えるようにしているという。2人きりで生活している以上、たとえ幼児であっても、病気のことを隠し通すことはできない、と考えたためだ。
そんな娘さんも今年で9歳。今ではすっかり、母親の闘病生活を支える頼もしいパートナーに成長した。
「娘はいつも、『ありがとう』『本当によくがんばっているね』と言って、私を励ましてくれるんです。洗濯は娘がとてもよく手伝ってくれるんですが、あまり調子が良くない私がやっていると、『おかあさん、すごいね』と誉めてくれる。かと思えば、『今、遊んでるんだから、洗濯しといてとか言わないでよ』と言うこともある。そういうところは、まだ子供なんですけどね」
年齢相応の子供の部分と、他の子よりも早く大人になってしまった部分。その両極を揺れ動く娘の姿を見つめるとき、中野さんの胸中にはさぞ複雑なものがあっただろう。
「でも、この経験は大人になってからきっと役に立つ、と私は信じています。行動で我慢しなければならないことが多い分、言いたいことがあったら我慢しないで、と――それだけはいつも娘に言っているんです」
友人に恵まれたからこそ今までやってこれた

幼い娘に頼らざるをえなかったのには、じつはもう1つの理由があった。両親が高齢で病弱だったことや、他の親族もそれぞれの生活があり、家族のサポートを受けることがあまりできなかったのだ。このため、治療や生活、行政上の手続きに至るまで、中野さんはすべてを1人でやり遂げなければならなかった。
身内の支えは、年端もいかない幼い娘のみ。そんな状態で、中野さんはなぜ闘病生活を乗りきることができたのか――。それは「友人にとても恵まれたから」だと、中野さんは言う。
がん患者仲間や学生時代の友人、学校の保護者のお母さん、会社の同期、離婚裁判で力を貸してくれた弁護士――周囲のみんなが中野さんに温かく手を差し伸べてくれた。
「周囲の支えをとくに感じるようになったのは、再発してからです。みな、がん患者ではなく1人の友人として接し、それでいて病気の話も聞いてくれる。病気になってからは、出会う人���べてがいい人ばかり。病気を機に、人との関係が本当に深くなりましたね」
「薬はこんなにある。簡単には死なせない」
再発を機に、治療のほうも新たな局面を迎えていた。ちょうど新しく出たばかりのホルモン剤、フェマーラ(一般名レトロゾール)の投与を開始。副作用の更年期障害に悩まされながらも治療を続けたかいあって、腫瘍マーカーは標準値まで下がった。
だが、1年半後の08年3月、乳がんは再び勢いを吹き返す。検査の結果、以前と同じ場所に8個の腫瘍が見つかった。
「あ、来たか、という感じでしたね。いつかは増悪すると思っていたので、このときは割と冷静でした」
そう語る中野さん。このときのS医師の姿を、中野さんは今も頼もしく思い出す。S医師は中野さんの目の前で、考えられる治療法をすべて書き出し、「今まで効かなかった薬はこれ」「まだ使っていない薬はこれ」と、テキパキと分類していった。
「そんなに簡単には死なせないわよ、薬がこれだけあるんだから。こまめに検査して、切り替えのタイミングを随時見ていきましょう」
その言葉はあくまでも力強く、「絶対に私が助けるぞ」という気迫が感じられた。深刻な状況ではあったが、その言葉に中野さんが安堵感を覚えたことはいうまでもない。先生は私を治すために、全力で伴走してくれる。心から信頼できる主治医と出会えたことの幸せを、中野さんはかみしめていた。
とはいうものの、中野さんはすべてを主治医に任せきりにしていたわけではない。自分でも治療法をかなり勉強していたこともあって、治療法の選択はまさに医師との共同作業であった。
中野さんとS医師が重視したのは、ライフステージに合わせて薬を選択することだった。折しも中野さんは、「娘の小学校入学」という人生の一大転換期を迎えていた。その多忙な時期に、効果と副作用が強い薬を使えば、体調が悪化して子供にも悪影響を与えかねない。そこで、中野さんは効果や副作用がマイルドな治療から始めることを希望。S医師も賛成し、ホルモン剤を皮切りに、さまざまな薬剤による治療が始まった。
09年6月には、点滴の抗がん剤ナベルビン(一般名ビノレルビン)の投与を開始。これが功を奏して、しばらくは腫瘍マーカーの値も落ち着いていたが、その後は再び病勢がぶり返した。このため、10年2月から2カ月間、開発中のがんワクチンの臨床試験に参加。しかし、残念ながらワクチンは効かず、がんは肝臓に転移。腹部の腫瘍も2センチから5センチまで拡大し、強い痛みにも悩まされるようになった。現在はタキソテール(一般名ドセタキセル)を投与しながら、モルヒネ鎮痛薬で痛みを抑えている状態だという。
娘はがんと一緒に闘う頼もしい戦友

現在、中野さんは、毎週1回の訪問看護と医師の往診を受けながら、通院治療を行っている。やっとの思いで入社した会社ではあったが、病状や治療の副作用が重いこともあって、再発直前に会社を退職。その後に始めた損害保険の派遣社員の仕事も断念し、今は行政の支援を受けながら、治療に専念している。
「ときには治療がつらくて、あきらめたくなることもある。でも、たとえ再発しようが増悪しようが、娘のために何が何でも生きなければならない。そういう強い気持ちがいつも根底にあったからこそ、ここまで生き延びられたのかもしれません」
そんな中野さんにとって、生きる原動力となっているのが、娘のめざましい成長ぶりだ。中野さんは、娘が6歳のときのこんなエピソードを紹介してくれた。あるときテレビの番組で、米国のレモネード・スタンド基金のことが紹介されていた。レモネード・スタンド基金の発祥は、白血病の友人が亡くなったことにショックを受けた女の子が、レモネードを作って1杯100円で売り、白血病治療の研究開発に寄付したことに端を発する。この番組を見たとき、娘は感動のあまりワアワア泣いて、こう言った。
「私は乳がんを治すお医者さんになろうと思っていたけど、年をとってから死ぬより、小さい子が死ぬほうがかわいそうだ。だから私は小児科の先生になる」
その言葉にたがわず、娘は目下、学校で1番の成績をとるためにがんばっているという。
「娘にとってお医者さんは、パン屋さん、パティシエと並ぶ“なりたい職業”の1つなんです。現在はお母さんの乳がんを助ける外科医になると言っていますけどね」――中野さんはそう、誇らしげに語ってくれた。
「娘は2人きりの家族であると同時に、一緒にがんと闘ってきてくれた戦友でもあります。今の私があるのは娘のおかげ。生まれてきてくれて本当にありがとう、という気持ちです」
母子2人、がんとともに歩み続けてきた6年間。それはあたかも、深い絆で結ばれた2つの魂による巡礼の旅であった、といえるかもしれない。そのはるかな先には、希望という名の灯がほのかにともっている。
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