47歳でサルサにのめり込んだ元敏腕芸能プロデューサーの体からがんが消えた…… 踊ることによって、内なる生命力を呼び覚ました!?

取材・文:吉田燿子
発行:2010年8月
更新:2013年8月

膀胱がんが発覚し、BCG療法を開始

渡部さんにとって、踊ることの意味を根底から覆すような出来事が起こったのは、それから8年後のことである。

57歳の夏から秋にかけて、渡部さんは頻尿に悩まされ、恵比寿のクリニックに3カ月ほど通院した。だが、頻尿の症状は止まる気配がない。紹介状をもらって広尾の日本赤十字医療センターの泌尿器科を受診したのは2005年11月のことだ。

目当ての医師は不在で、代わりに30代の若い医師が応対した。1週間後に、尿にがん細胞があるかどうかを調べる尿細胞診の結果を聞きに行くと、予期せぬ答えが待ち受けていた。

「120パーセント、膀胱がんです」

さらに膀胱鏡検査を行ったところ、膀胱にがん細胞があることがわかったのだ。

「がんの宣告が、あれほどズシンと来るものだとは思いませんでした。それで大慌てでかみさんに電話して……。検査でこんなに簡単にわかるものなら、なぜもっと早く検査してくれなかったのか――一瞬、恵比寿のクリニックの医者を恨みましたね」

気落ちしていたせいか、医師の言葉の否定的な響きも気になった。表在性膀胱がんと診断され、幸いなことに浸潤は認められなかったが、BCGによる膀胱内注入療法を行うことになった。

「ところが、医者は『こんなことやったって意味がないんだ』、というニュアンスでね。『BCG療法による治癒率は20~30パーセント。仮に効いたとしても、再発の可能性は高い。膀胱がんは膀胱を全摘するしか治る道はないんです。早く手術しましょう』という感じでした。こっちもサルサを踊ったりして突っ張っているから『冗談じゃない』、と思いつつも、がんが思いのほか進んでいたらどうしよう、と。ネガティブな思いばかりが広がっていきましたね」

厳寒の玉川温泉での思いがけない“再会”

セカンドオピニオンを求めて他の病院にも足を運んだが、「結果はあまり覚えていない」と渡部さん。

日赤での治療とは別に、丸山ワクチンも試みた。エピック・ソニーの創始者である丸山茂雄さんが、丸山ワクチンを開発した丸山千里博士の長男だった関係で、音楽業界には丸山ワクチンの信奉者が多いという。

この他、キトサンのサプリメントやニンジンジュースを飲用し、大好きなコーヒーもぷっつりと止めた。体の血流をよくするために、愛媛の職人が作った棕櫚製のたわしで体を洗うなど、低体温を改善するための努力も惜しまなかった。

この時期、渡部さんは代替療法としての温泉療法も試みている。全国からがん患者が集まることで有名な、秋田の玉川温泉を訪れたのは、告知から1カ月後の12月のことだ。

全国有数の豪雪地帯とあって、盛岡で新幹線から車に乗り換え、途中からは雪上車で現地に向かった。一面に雪と岩が広がる荒涼とした風景の中に、緑の屋根のテントが3つある。ここで岩盤浴をすれば、50度前後の岩盤の熱と、鉱物の1種である北投石から発せられる微量の放射線により、がんに効果があると信じられている。テントの外は、3メートルの雪が降り積もる零下10度の世界である。その厳寒��なかで、渡部さんは2時間近くも立ち尽くし、ただひたすら順番を待った。

その日は近くの旅館「そよ風」に宿をとった。出された料理に箸をつけると、なぜか懐かしさがこみあげてきた。実家が没落する以前、渡部家には秋田の角間川町から大勢の女中が働きに来ていた。彼女らが作ってくれた“おふくろの味”が、ふと、記憶の隅から甦ったのである。

「うれしかったですねえ。後で聞いたんですが、秋田出身の母も、『玉川温泉はいいわよ』と言っていたことがあるそうです。何か縁を感じたというか、力づけられるものがありましたね」

藁にもすがる思いではるばる訪れた、秋田の玉川温泉。そこで待っていたのは、久しく忘れていた故郷の味だった。

再検査でがん細胞が死滅していることが判明

写真:高松のサルサキッズグループの子どもたちと一緒に
高松のサルサキッズグループの子どもたちと一緒に

自分ががんになった原因を、渡部さんは「ストレス」と分析する。ストレスが原因なのであれば、そのストレスをなくすしかない。どうせ死ぬなら、好きなことを思いきりやって死にたい。そう考え、渡部さんは以前にもまして、ただひたすら踊ることに没頭した。当時の心境を、渡部さんはこう語る。

「どうせ長くは生きられない、僕にはもう踊りしかない、と思ったんですね。サルサでは男性が女性をリードしなければならないので、『この楽曲の世界をどうしたらパートナーにうまく伝えられるか』ということで頭がいっぱいになる。踊っている間だけは、自分ががんだということを忘れられたんです」

こうして、以前にもましてサルサに没頭する日々が続く中、渡部さんの体の中で変化が起きる。告知から4カ月が過ぎたころ、再び膀胱鏡検査をしたところ、4カ月前にあったがん細胞が死滅し、もう体内に残っていないことが判明したのだ。 (この4カ月間は一体、何だったんだよ……)

もちろん、治療による効果があったことは確かだろう。しかしそれだけではない、と渡部さんは感じている。

BCG療法に加えて、丸山ワクチン、温泉療法、サルサ……、代替療法を思いつくままに試した日々――。

その中でもとくにサルサが、がんに何らかのよい影響をもたらしたことは間違いない、と渡部さんは信じている。では、サルサの何が、がんにプラスに作用したのか。渡部さんはこう推測する。

「サルサの最大の特徴は、絶えず違ったパートナーと踊る点にあります。そこが、特定のパートナーを決めて競技をする社交ダンスと違うところです。見知らぬ人と触れ合い、人類愛や平等に対する祈りを込めて踊る。そんなサルサには、ヒーリング効果という言葉では表せない、血がかよったエネルギーがあります。サルサを踊ることで、何かの力が僕の体内に芽生えた。その何かが生命力を呼び起こしてくれたのかもしれません」

生きるために踊ろう、踊って病を癒やそう

写真:サルサイベントに参加した人たちから渡部さんに贈られた色紙や手紙

サルサイベントに参加した人たちから渡部さんに贈られた色紙や手紙

写真:サルホナイト

2010年5月に開かれたサルホナイト。会場はたくさんの人の熱気にあふれていた

現在、渡部さんは3カ月に1度の尿細胞診を継続中。そのかたわら、『サルサ・ホットライン・ジャパン』代表として、東京並びに日本のサルサ・シーンを支えている。

海外から著名なダンサーを招いたり、メディアでサルサのPRをしたりしながら、さまざまなイベントを企画。定期的に開催される<サルサ・ホットライン・ナイト(通称サルホナイト)>は、初心者も含めて毎回多くの参加者であふれ返る。

そんな渡部さんが力を入れているのが、冒頭でもふれた『ダンス・フォー・ライフ』だ。

これは、いわば「踊ることによって、内なる生命力を呼び覚ます」ためのイベントである。その試みが最初に行われたのは、07年の<ジャパン・サルサ・コングレス>(於:ZEPP東京)でのこと。

このときは、渡部さんががん体験を告白したのを皮切りに、乳がんを患うサルサのインストラクターたちが、ステージ上で次々にカミングアウト。さらに、米軍基地から急きょイラクに派遣されることになり、当日イベントに参加できなかった、サルサ・ファンの米軍兵士のメッセージも読み上げられた。

「<ダンス・フォー・ライフ>とは、がんに限らず、心身の病や痛みを抱えるすべての人たちに向けられたメッセージです。それは、『生きるために踊ろうよ』『踊って癒やそうよ』という呼びかけなんです」

そう語る渡部さん。渡部さんによれば、サルサとは健康回復のみならず、人間性回復のための処方箋でもあるのだという。

「今はデジタル化やIT化が進み、人の温もりに触れる経験が決定的に欠けている。血の通ったコミュニケーションであるという意味で、サルサとは偉大なアナログの復活なんです。しかも、サルサは1曲ごとにフェロモンが出る踊りといわれている。サルサを踊ると、モテるようになりますよ」

最後の言葉に惹かれたわけではないが、土曜の夜、渡部さんが主宰するサルホナイトを覗いてみた。会場は熱気にあふれ、老いも若きもが一体となって、気持ちよさそうに体を動かしている。どこか昭和の歌謡曲にも似た、サルサ音楽の調べ。その響きはどこか懐かしく、人肌の温もりに満ちていた。

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