ノンフィクションライターが綴るがんと対峙した7カ月間の記録(手記) 人は病を得ることで支え合って生きることを知る
思いもよらなかった――大腸との重複がん
3月2日から抗がん剤の点滴が始まる。放射線科では顔にすっぽりかぶせられて身動きがとれなくなる合成樹脂のマスクを作成。その後、全部で30回照射という計画と副作用について説明を受け、照射を開始した。
しかし翌日になると、状況が一変する。火曜日朝にY教授の診察があり、PET画像に大腸にがんの反応が見られたと告げられたからだ。
明くる日、大腸内視鏡をするが、S状結腸の当たりで内視鏡が先に進まず、モニターを見ている医師の「無理するな」との声が聞こえる。
午後5時過ぎに、若い医師が抗がん剤の点滴を外しに来て、カンファレンスルームに呼ばれる。耳鼻咽喉科と消化器外科の医師が揃っていて、大腸がんがかなり進行していることを告げられる。わたしは昨日Y教授から告知された時点で覚悟していたので冷静だった。転移したものか聞くと、別のがんで重複だという。すでに腫瘍部が大きく腫れ上がっている箇所は直径5ミリしか隙間がなく、内視鏡を通さないほど狭まっていた。このまま放っておくと便が詰まって腸閉塞、腸破裂を起こしかねないため、下咽喉がんの治療の前に先に手術をしなければならず、その間、下咽喉がんが進行したら声帯温存はできない可能性も高いという。
重複がんと声帯を失う可能性が高いという二重のショックに打ちひしがれているわたしを、妻が「こうなったら1つひとつ治療していきましょう」と励ましてくれた。深刻な事態に普段なら取り乱す妻が、気丈だったのは、昨日から心の整理をつけていたのだろう。その後も、終始気丈に振る舞って支えてくれたのは助かった。
翌日、耳鼻咽喉科から消化器外科に転科。手術は緊急を要するが、抗がん剤の副作用で白血球数が下がっているため手術したときに感染症を起こす確率が高く、またS状結腸の先の下行結腸、横行結腸に便が詰まっているのを除かなければ、手術中にがんが飛び散って腹膜炎を起こす可能性があるため、結局3週間後になるという。
手術が終わるまで絶食、栄養は点滴によって補給をするために、左胸の太い静脈付近に中心静脈用の点滴針を入れる。
さらに腫瘍部から先の大腸に貯まっている便を出すために肛門から管を入れる。肛門からチューブが尻尾のようににょっきりと出ている姿は屈辱的だ。
翌日から手術の前日まで来る日も来る日も腸内洗浄される。咳をすると肛門がしまって管に当たってやけに痛む。
この頃、妻はもちろんのこと、子どもたちや飲み屋の常連さん、昔のスキー仲間がよく見舞いに来てくれる。
手術は成功 しかし、術後腸閉塞に苦しむ
3週間後、手術を受ける。手術は6時間ほどで、がんは他の内臓に転移していなかった。
鼻からも尿道からも管が通され、いかにも重病人といった趣。手術後は猛烈に寒く、手術創も痛む。
術後2日目は起きあがれなかったが、3日目は看護師に促され、起きあがって歩かされる。尿道のカテーテルも取れ、肛門から造影剤を入れて縫合部がくっついているか検査して、水を飲んでも良いことになる。水分補���から始まって5分粥が取れるようになった矢先、食べたものをすべて吐いてしまった。術後腸閉塞を起こしたのだ。
翌日、鼻から管を胃まで通し、胃液を排出する機械に繋ぐ。チューブが咽喉部を通っているため喉が痛む。鼻からチューブが入っていると集中力が欠如し、短い新聞記事も読めない。姿勢を維持することさえ難しく、身の置き所がないとはこのことだと思った。
賽の河原の石の積み直し、再度、水分補給から流動食、全粥、3分粥、5分粥、7分粥と経口食を取り、易消化食に進み、何とか術後腸閉塞をクリアする。
味がわからない……放射線治療の副作用
4月20日、耳鼻咽喉科に転科。その前の週に外来で受診したところ、1カ月半前に注入した抗がん剤が効いたのか、腫瘍は進行していなかった。声帯ごと除去する手術はせずに、抗がん剤と放射線治療を行うと医師に言われる。これを聞いた妻は、手を叩いて喜んでくれた。
転科して翌々日から、抗がん剤の点滴と放射線治療を開始。私の場合は、5-FU(一般名フルオロウラシル)を4日間、それに初日タキソテール(一般名ドセタキセル)、4日目にシスプラチン(商品名ランダまたはブリプラチン)を組み合わせる。
化学療法と同時に放射線治療も始まる。放射線照射は、痛みはなく手術に比して体に対する負担は軽いが、副作用が結構つらい。
照射8日目、最初に来たのが口の中がカラカラになる口内乾燥で、一時も水を手放せなくなる。そして、次に来たのが味覚障害だ。普通、甘味から感じなくなるというが、わたしの場合は塩味がしなくなり、刺身を食べていてしょうゆの味がしなくなった。それからは次々と食べ物の味が失われ、何を食べてもすべて同じ。食べ物に色彩がなくなり、土を噛んでいる感じになる。

その後、脱毛が顕著になり、さらには喉に痛みが走るようになって左の耳にかけて神経痛のような鋭い痛みが走る。照射14、15回になると、痛みはさらに激しくなり、痛み止めを飲まないと眠れなくなる。20回が終わって休止期間に入ってから、放射線を照射した頸部はヒリヒリ感がつきまとわれる。
毎週火曜日、Y教授の診察があり、鼻から内視鏡を入れて、腫瘍部に変化があるかを診る。放射線照射10回目から「かなり効いてきていますね」と言う。頸部のリンパ節の腫れは自分でも触って分かった。 計画された治療をすべて終える週に、Y教授から来週の月曜日退院と伝えられる。退院日時を妻にメールで知らせると、すぐに返事が返ってきた。
「退院が決まっておめでとう。ほんとうによかった、長かったですものね。よくがんばりました!!」
「生きなければ……」支えられて生きているのを実感

仲間と一緒に行ったスキー場で
6月22日、退院。内視鏡やCT、MRIではがんが全てなくなったかどうかは確定できず、最低でも1カ月経った後、再度検査してがん細胞が消失しているか確認すると言われる。
8月12日に検査入院、翌日全身麻酔をして採取した組織を病理検査にかけた結果、がん細胞はきれいに消失していて、経過観察になった。
がんという業病を抱えてしまって、一時期オレはあと何年生きられるのだろうと、落ち込んだ。しかし、家族や見舞いに来てくれた飲み屋の常連、スキー仲間、友人に励まされたことで、「オレはまだみんなから必要とされているのだ。オレの命は自分だけのものではない、生きなければ……」と思うようになった。
人は病を得ることで、支え合って生きていることを実感する。また1つ賢くなった。でも、賢くなるより健康体のほうがどれだけいいか!
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