20代でがんが発覚。出産直前までがん治療の後遺症に苦しんだ がん、不妊治療を経て産まれた命。夫と一緒だから乗り越えられた
夫婦の前途に立ちふさがる難題の数々
自らの頸がん手術の不安からスタートした不妊治療だが、検査の結果、男性不妊のケースであることが判明した。
「自分に原因があると知って、主人はすごく落ち込んでいました。主人を責めるようなことは言えないので、体力的につらくても、なかなかそれを訴えることができない。主人のほうでも『自分のせいで私に大変な思いをさせている』という思いがあるから、自分のつらさを吐き出すことができない。それで、お互いイライラして喧嘩してしまうこともありました」
菰原さん夫婦のケースでは、精液中の精子の含有量が少ないため、精巣から精子細胞を直接採取して顕微授精を行う方針が決められた。顕微授精とは、顕微鏡下で精子を直接卵子に注入し、受精の確率を高める方法のことだ。
菰原さん夫婦は、男性不妊治療を手がける板橋区の大学病院で精子細胞の採取手術を受け、恵比寿のクリニックで顕微授精を実施。だが、結果はやはり思わしくなかった。
「この分だと、顕微授精を続けても妊娠はむずかしい。うちではこれ以上、お力にはなれません」
そう、医師は告げた。それは、いつか妊娠することを信じてつらい不妊治療を続けてきた菰原さん夫婦にとって、残酷ともいえる宣告だった。それでも、まだ選択肢は2つ残されている、と医師は続けた。1つは、精子バンクを利用して他人の精子を利用する方法。もう1つは、精子になる前の後期精子細胞を使って顕微授精を行う方法である。
3年間にわたる不妊との戦いに終止符
精子は精巣の中で、精粗細胞から第1次精母細胞・第2次精母細胞・前期精子細胞・後期精子細胞というプロセスをたどって作られる。仮に精子に問題があっても、後期精子細胞を顕微受精に利用することができれば、妊娠の確率は格段に向上する。この治療法を実践している福岡のセントマザー産婦人科医院を紹介され、菰原さんは夫とともに九州に飛んだ。この分野では第1人者といわれる田中温院長のもとで、いよいよ後期精子細胞を用いた顕微授精による不妊治療が始まった。
この治療では、精巣生検を行って後期精子細胞を採取し、いったん凍結保存。この後期精子細胞を使って後日、顕微授精が行われる。菰原さんは有休をとり、治療のために福岡に通った。九州での滞在日数は1回の治療ごとに5日から1週間。夫も可能なかぎり菰原さんの治療に付き添った。なんとしてもわが子をこの手に抱きたい――一縷の望みをかけて、まさに夫婦一丸となっての総力戦だった。
吉兆が表れたのは、4回目の治療を終えた帰京後のことである。妊娠検査薬でチェックしたところ、妊娠の兆候を示す待望の“線”が表れた。
「もうビックリして、主人にも検査結果を確認してもらいました。でも、手放しでは喜べなかった。これまでさんざん、『期待したのにダメだった』の��り返しでしたから……。病院で結果が判明するまでは、本当にドキドキしましたね」
病院での検査結果は、妊娠約1カ月と判明。待ちに待った朗報に菰原家は沸いた。3年間にわたる不妊との戦いに、ようやく終止符が打たれようとしていた。
長い苦闘の末に強められた夫婦の絆

結婚後、子供のいない寂しさを埋めようと、プレーリードッグを飼っていたこともあるという菰原さん。そんな菰原さんも、次々にふりかかる難題に、1度は不妊治療をあきらめようと思ったこともあるという。それでもあきらめずに前進する原動力となったのは、いうまでもなく夫婦の絆だった。
「2人で力を合わせないと絶対に子供は授からない。めざす方向を一緒にしていくために、2人で何回も話し合いました」
期待と落胆、そして希望――その繰り返しのなかで、夫婦の紐帯は確実に強められていった。それを示すのが、福岡で不妊治療を受けていたときのエピソードだ。 「主人の後期精子細胞は病院で冷凍保存されていたので、治療には私1人が九州に行けばよかった。でも、それでは主人の気がすまないようで、仕事をやりくりしては九州まで来てくれたんです。2人で一緒に治療に臨んだほうが、治療が成功する確率も高まるのではないかと」
待望の妊娠は、そんな2人の祈りが天に通じた結果だったのかもしれない。
出産を前に立ちふさがる「頸管無力症」という壁
こうして08年6月、菰原家では出産に向けてのカウントダウンが始まった。出産にそなえてインターネットでの病院選びが始まり、口コミ・サイトで「病院の食事がおいしい」と評判のローズレディースクリニック(世田谷区)で産むことを決めた。
だが、喜びもつかの間、菰原家の前に最後のハードルが立ちはだかる。初回の問診で、過去の病歴と治療歴を告げると、医師がこう言った。
「円錐切除手術をした人は、子宮頸部が短くなっているので、早産のリスクがあります」
その言葉通り、検査の結果、「頸管無力症」の診断が下った。子宮頸部の中には頸管があり、これが出産時の産道の一部となる。ところが頸管無力症の場合、妊娠して胎児が成長すると、頸管が内側から開き、子宮口が開いて早産してしまうことがある。これを予防するために、11月、子宮の入り口の頸管部分を縛る頸管縫縮術が行われた。
このときの経験で、菰原さんはあらためて、がんの怖さを実感した。子宮頸がんの術後検診に5年間通い、体はすっかり癒えて健康体を取り戻したはずだった。これからは、ふつうの人と同じように妊娠・出産ができると信じきっていたのに、今頃になって手術の後遺症が早産のリスクという形で出てくるなんて……。菰原さんは、がんという病気の難しさを思い知った。
翌09年2月上旬、23日の出産予定日に備えて子宮頸部の抜糸を行ったが、10日に破水、病院で出産体制に入った。ところが、頸管無力症で頸管が開き、赤ちゃんがどんどん産道を下りてくる。にもかかわらず、子宮口が開くのが間に合わず、産みたくてもなかなか産むことができない。最後の最後まで、がんの後遺症に苦しめられた。
そしてようやく13日の朝8時過ぎ、ご主人立会いのもとで無事出産。待望の赤ちゃんは2772キロの女の子で、「凛々花」ちゃんと名づけられた。凛とした風情のある花のような女の子に育つように。両親の祈りを一身に集めての誕生だった。
今まで苦しかった分楽しい思い出を作りたい

その5日後、院内の個室で、“出産ディナー”を楽しむ菰原夫妻の姿があった。
「子供が産まれれば、しばらくは夫婦2人でゆっくりディナーを楽しむこともなくなるから」という、クリニックの心憎い配慮だった。
「『今まで大変だったけど、赤ちゃんが無事に生まれて本当によかったね』と……。つらいこともたくさんあったけど、そんな苦労も全部吹き飛びましたね。
不妊治療を通じて1番変わったのは、夫婦の関係です。それまで、お互いのことについて深く思いを語りあうようなことってなかったんですね。でも、不妊治療を通じていろいろな話をする機会が持てた。
夫婦の関係が今まで以上に深まったと思うし、2人で同じ思いを共有しながらここまで来ることができた。それまでは単にいい加減なだけだと思っていた夫の明るさも、本当の優しさから来ていることに気づいたんです」
今、菰原さんが楽しみにしているのは、親子3人で大好きな果物狩りに出かけることだ。
「今まで苦しかった分、楽しい思い出をたくさん作りたい」と菰原さん。そのためにも、今後はバランスのいい食事を摂り、健康的な生活を心がけたい、と抱負を語る。
「がんになったことで、自分の体を大切にすることを学びました。早期発見と早期治療ができたからこそ、今の自分があると思います。これからは凛々花を囲んで、明るくて楽しい、笑顔のたえない家庭を作りたいですね」
そう言いながら、凛々花ちゃんをあやす菰原さん。その顔に浮かんだのは、まぎれもなく慈母の表情だった。
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