あきらめたらあかん。あきらめなければ夢は叶う 抗がん剤治療をしながら、北京パラリンピックに挑んだ脳性まひアスリート・藤田真理子さん

取材・文:増山育子
発行:2009年2月
更新:2018年10月

死の恐怖を受け止めてくれたコーチの言葉が心の支えに

2007年3月。藤田さんは入浴中に、左の乳房の脇にできたしこりに気づいた。

「3センチくらいの大きさで、触ってみたら固い。その瞬間にこれはまずいって思いました。ただのできものではないって直感しましたね。母に『これ、なんやろう』って言ったら、母もすごく動揺して……気ぃ失いかけてました」

「どうしよ、どうしよ……」と慌てふためく母親に、藤田さんは「明日、病院行くわ」と言うしかなかった。

「母親には冷静に対応しましたが、怖くてどうしようもなくて、深夜だったのですが清田コーチに電話をしました。『お願い、電話取って』って祈りながら……」

翌朝いちばんに町医者に行くと、即座に『乳腺外科がある大学病院と民間の病院、どっちにするか?』と聞かれ、大阪市北区にある北野病院を受診することにした。

「北野病院というと古くてお化け屋敷みたいな病院っていうイメージだったのですが、最近リニューアルしてホテルのようにきれいになっていたのです。それで『北野病院にします』と即答しました(笑)」

その後北野病院を受診し、マンモグラフィや細胞診などの精密検査を受けて「悪性」と判明した。

『つまり、がんってことか……死ぬのかな』

恐怖に駆られたが、一緒に説明を聞いていた母の真っ青な顔が目に入った。藤田さんは自分の恐怖心をこらえて「できてしまったもんは仕方ない。取ったらいいねん」と、気丈に言い放った。

告知を受け、清田さんに電話をすると、「晩御飯を食べに行こう」と誘われた。その日、母親と家にいたらどうしようもなく暗くなっていただろうから、食事の誘いは本当にありがたかった。

「夜、待ち合わせの駅でコーチの姿を見つけたとたん、我に返ったというか……初めて怖いという気持ちを訴えることができました。人目も気にせず、コーチに抱きついてしまいました」

「怖いねん、死にたくないねん!」と泣き出した藤田さんに、清田さんは「大丈夫、私が支えるから、頑張ろう」と告げた。その言葉は力強く藤田さんのこころに響いた。

副作用を乗り切って必ずパラリンピックに行く

「パラリンピック出場」という夢を諦めたくない藤田さんがまず行ったことは、主治医に「スポーツをしてもいいですか」と確かめることだった。それだけのことを聞くのに、勇気が必要だった。

「『命のほうが大事だろう、スポーツどころじゃない』なんて言われたらおしまいですから。ドキドキしましたよ」

しかし、主治医の返事はいともあっさり「いいよ」のひとこと。そこで藤田さんは続けた。

「私、北京パラリンピックに行きたいんです。今年の秋、パラリンピックの最終選考会があるんです。ほかの大会は治療を優先させるけど、最終選考会だけはどうしても出たいんです」

「出ようや。頑張ろう。ぼくは君の病気を治す。君は北京に行きなさい」

その主治医の言葉に藤田さんは心底ほっとした。

2008年5月。藤田さんは左乳房の一部分を切除する手術を受けた。左乳房に転移していた1つ以外は転移はなく、手術は無事終わった。

「手術のとき、『コーチに来てもらってください』と主治医に言われました。『術後に君が向かう先は競技なのだから、競技のパートナーとしていちばん頼りにしている人が、麻酔からさめたとき目の前にいてくれたら心強いよ』って。たしかにそうでした」

手術の後、化学療法が始まり、藤田さんは抗がん剤の副作用に苦しんだ。耐え難い吐き気と倦怠感は予想をはるかに超えていた。

「点滴に制吐剤が入っているといわれても、ぜんぜん効いてないと思ったほど。初日は点滴を終えて帰宅して、晩になにも食べていないのにえずいて大変でした。3日後くらいにやっとましに……。つらかったですよ、ほんとに」

1カ月に1回、4クールの抗がん剤治療中も、もちろん練習は続いた。点滴が終了し、服薬に切り替わると、吐き気からは解放されたが、今度はひどい倦怠感に見舞われた。よっこいしょと声を出さなければ体が動かない。しかし休むわけにはいかない。休んだとたんに筋力が落ちるのは目に見えている。「ぜったい北京へ行く」という一心だった。

北京パラリンピックの最終選考会であるジャパンパラリンピックが近づくと、いったん抗がん剤を中断することにした。再発リスクを考えるときわどい選択ではあった。

「北京が決まれば治療を再開する。治療と競技、どちらも投げ出さない」と揺るぎない決意でのぞんだ2008年ジャパンパラリンピックで見事優勝し、念願の北京への切符を手にした。

発達しすぎた大胸筋が放射線を通さない!?

手術直後に予定していた放射線治療は、皮膚への影響が投げる姿勢に支障をきたすかもしれないということで、北京前は回避。帰国後から実施することとなった。

ある日、放射線科の医師が「放射線の照射回数を増やしていい?」と言った。どきっとした。

「転移が見つかって増やさなくてはならなくなったのだろうか。それにしては医師も看護師さんもニコニコしている。いったい、なぜ……? と思いました。すると、医師がレントゲンを持ってきて『あなたの場合、筋肉があるから放射線が届きにくい。ピンポイントで3回追加しましょう』って。ほっとしましたが、へんなショックがありましたね(笑)」

「放射線は、脂肪は通るが筋肉は通りにくい。女性でこれだけ大胸筋が発達している人はまずいませんから」と医師は言った。

北京パラリンピック後、藤田さんは治療に専念するため、競技は一時休業としている。それでも筋肉を落とさないようにウエイトトレーニングは欠かしていない。やはりアスリートはものすごい努力家だと感嘆せずにはいられない。

「努力ですか? 今はそれほど努力しているという感じはないです。やはり左半身の麻痺がありますから、子どものときは授業についていくために人の倍、努力しなくちゃいけなかった。まわりからも『努力しなあかん』と言われていましたし。でも今、スポーツに関しては自分のやりたいことをやっているだけ。これって努力というのかな? やりたいことのためにやるべきことをしているだけですよ。練習が好きか嫌いかといえば、嫌いですし(笑)」

夢があるから、支えてくれる人がいるから頑張れた

写真:ファインプラザ利用客と
写真:ファインプラザ利用客と

スポーツ指導員として勤務するファインプラザでなじみの利用客と談笑

写真:事務仕事

ファインプラザでは指導員として体を動かすだけでなく、事務仕事も行っている

明るい日差しが差し込むガラス張りのフロアに本格的なトレーニングマシンがずらりと並ぶ。車椅子対応の機器も揃えたファインプラザ大阪(大阪府立障がい者交流促進センター)には、地域の人や障害者、中学・高校生も訪れ、スポーツジムに通うような感覚で談笑しながら皆汗を流している。

藤田さんは、この施設のインストラクターとして働いている。

「ここでは皆さん、おしゃべりしながら体を動かしています。運動ってそうやって楽しむもの。ここで私は笑顔で過ごしています。練習や試合中の私とは別人です(笑)」

顔馴染みの利用者に「口ばっかり動かさんと手足動かしてくださいね!」と声を掛けると、エアロバイクを漕いでいた男性はここぞとばかりに言い返す。

「そういえば、北京で食べてばっかりやったんやろ? また、おっきく(大きく)なってるで」

「だって、おいしかってんもん。北京ダック!」

「そうかぁ、北京がんばったもんなぁ。あんだけできたらじゅうぶんや」

北京パラリンピックという目標がなければ、乳がんの告知に嘆き、うろたえるだけの患者だったかもしれない。

「乳がんの告知のあと、ど~んとモチベーションも落ちてしまいましたので、そこから這い上がってくるのにいろんな方に助けられました。私1人でここまで来れたわけではありません。支えてくれる人にめぐり会えたことが自分の財産になっています。諦めたらあかんって。諦めなければ夢は叶うと実感できたのですから」

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