がん宣告にも慌てず騒がず「しゃあねぇや」人生の強さ 「人呼んで、ハードボイルドだど!」で一世を風靡したボードビリアン/俳優/書評家・内藤 陳さん
「芸能人死亡トトカルチョ」のガチガチの本命だった
しかし、内藤さんのがん治療がまったくの順風満帆であったかといえば、必ずしもそうではない。放射線治療は10回ほど受け、下痢っぽくなる副作用を経験した。また、人工肛門をはずす2度目の手術を行い、退院したあと、歩くのがつらい時期もあった。自宅から新宿紀伊國屋まで、普通なら7分程度で歩けるのに、100メートル歩いては休むという繰り返しで、倍以上の時間がかかった。
現在、内藤さんは半年に1回、術後の検査を受けている。造影剤をのみ画像診断をしてもらっても、何ら異常はない。「時々、お尻が緩むことがあり、用心のためパットをしているが、調子としてはほとんどOK」と言う。今年も3月末に熱海「金城館」で、日本冒険小説協会第26回全国大会が開かれたが、熱海の女将さんたちから、「陳さん、お元気そうね。去年は嘘だったのね」と言われたほど、体調は回復した。
だから、がんや身体に関する笑い話が、次から次に出てくる。以前本誌(2008年6月号)の「がんと生きる」に登場した映像作家のかわなかのぶひろさんは、内藤さんの古くからの友人だが、昔から「オレのことをがんだ、がんだ」と言っていたという。
かなり前、シャレで「芸能人死亡トトカルチョ」があり、内藤さんは常にガチガチの◎(本命)だったという。「あまり死なないので、一時印が▲に落ちたときは悔しかった」と内藤さん。
内藤さんはまた、「先頃亡くなった赤塚不二夫さんは昔、月刊『文藝春秋』で立川談志師匠とのがん対談の中で、内藤陳ががんでないのはおかしいと言っていた。よけいなお世話だよ」と言いつつ、「昔から、普通の人間は、オレが死なないのはおかしい、と思っていたんだ」と呵々大笑する。
かつて内藤さんは舞台から落ちて、首の骨が5カ所も折れる大けがをしたことがある。しかし、その場では筋を違えた程度に思って、次の回も舞台に立った。それまで右手に持ってぶっ放していたピストルが手から落ちた。しようがないから、左手でぶっ放した。不思議に思って病院へ行ったところ、即入院となった。
そこへ立川談志師匠が見舞いに来た。内藤さんが検査で撮った1点の曇りもない内臓の写真を談志師匠に見せ、「どうだ、オレの内臓、きれいだろ。くやしいだろ」と言うと、談志師匠はジッと写真を見つめてくやしそうに言った。「これ陳チャンじゃない!」――。
ボードビリアン志望がストリップ劇場でコントを
がんになると、それまでの人生観��変わるという人は少なくない。しかし、内藤さんは直腸がんの手術を経験しても、それまでの人生観は微動だにしなかった。「しゃあねぇや」の一語である。その背後には壮絶な芸人人生がある。
内藤さんが読書家であることは日本冒険小説協会をリードしていることでも明らかだが、かつては「月刊プレイボーイ」で「読まずに死ねるか!」という書評欄を担当し、それは単行本としてシリーズ化されている。「あの内藤陳がよく本を読むと言われたが、本読みがたまたまボードビリアンをやっているんだよ」と、背筋を伸ばす。
実は、内藤さんの父・辰雄さんはプロレタリア文学の作家だった。「売れない作家で、ガキの頃、オレがメンコ、ビー玉で勝ってこないと、食えなかった。だからオレはガキの頃から粗食なんだよ。最近、小林多喜二の『蟹工船』がまた売れているそうだけど、ウチの親父も『エビ工船』ぐらい残しておいてくれたらなぁ(笑)」――。
内藤さんが芸能界に入るきっかけは、10代の半ばに「エノケン」こと榎本健一さんが日本で初めて開校した「お笑い学校」に、1期生として入学したことである。当時、内藤さんはミュージカル映画「ショーほどすてきな商売はない」に感動し、コメディアンというよりボードビリアン(軽喜劇俳優)を目指していた。だからエノケンの「お笑い学校」でも「タップ専科」に入った。
その後、日大芸術学部に入学し、池袋の喫茶店でアルバイトがてらカンカン帽をかぶって踊ると、「東京じゅうの女学生が押しかけた」という夢の初舞台を経験した。また、そこでサンドイッチマンをしていた劇団民芸の草薙孝二郎さんに誘われて秋田県への巡業公演に同行し、舞台で初めて、「殿様、ただいまお使者が参りました」という台詞をしゃべるという体験もしたが、前途はまだ星雲状態であった。 ある日、ギャグメッセンジャーズの須間一露さんから手紙が来た。「陳よ、芝居ができ、観光旅行ができて、食う・寝るはタダで、カネがもらえる仕事があるから来ないか」と書いてあった。内藤さんは地図を片手に、須間さんの待つ豊橋に向かった。到着すると、その劇場の看板には、「東京ニュー花電車ショー」と書かれていた。要するに、ストリップ劇場だった。それが内藤さんの人生を決定づけ、いつしか大学も中退した。
そのストリップ劇団は北九州を本拠地とする一座だった。九州へ行き、ストリップの幕間に舞台に上がると、「なんばしとるか!男は引っこんどれ!」と罵声を浴びた。そのうちに内藤さんは舞台で拳銃をぶっ放すコントを演じるようになった。それがストリップの観客の共感を得、「次いつ来るとね」と声を掛けられるようになった。
当時のお笑いは、貧しい人間、マイナーな人間を俎上に乗せて笑いを取る傾向があった。「オレたちはかっこよくやってお客さんを喜ばせよう」と、若手2人とトリオ・ザ・パンチを結成した。その頃、佐賀県のストリップ劇場へ行くと、看板に「コーラス トリオ・ザ・パンチ」とあった。当時人気のラテン・コーラスグループ「トリオ・ロス・パンチョス」との錯覚を狙った看板であった。待ち時間に宿舎となっていた従業員の寮でテレビを見ると、東京オリンピックの中継をやっていた。
恥ずかしい生き方をしない虎の威を借る狐にならない

店を訪れる著名な作家・監督などがサインをした
内藤さんの舞台写真

夜9時30分にはほぼ毎日店に出勤し常連と談笑する
「深夜+1」TEL:03(3209)7872<オープン19:00~>
その後、トリオ・ザ・パンチは東京でも認められた。ストリップのメッカ「日劇ミュージックホール」で連日、内藤さんは拳銃をぶっ放し、「ハードボイルドだど!」を連発した。「大正テレビ寄席」にも出演し、人気は全国区になった。内藤さんは基本的に、「目の前にお金を払ってくれたお客さんがいる」ことを大事にしている。「大正テレビ寄席」はテレビ番組だったが、会場にはお金を払ったお客さんがいた。
だから、最近の若いお笑い芸人のように、テレビで醜態をさらすことはない。「オレは自分の生き方にこだわる。みっともない生き方はしない。自分に恥ずかしい生き方はしない。虎の威を借る狐にはならない。胸に電子計算機を持っているような人間にはならない。長幼の序を忘れるな」と常に自戒しながら、「しゃあねぇや」の一語を胸に恬淡と生きている。
日本冒険小説協会の拠点、会員たちのたまり場として、26年前から新宿ゴールデン街に「深夜+1(深夜プラスワン)」というバーを営んでいる。店内の壁には、若き日の内藤さんの舞台姿の写真が所狭しと貼られていて、懐かしい。内藤さんは舞台がないときは、午後9時半から午前零時ぐらいまで、毎晩顔を出す。
学生時代に飲み代に苦労した内藤さんは、学生が安心して来られる店として、ボトルさえあれば、何時間いても1人1700円の料金を貫いている。「読まずに死ねるか!」で紹介したり、日本冒険小説大賞を設けることによって、多くの冒険小説、推理小説の作家の誕生を側面から支援してきた内藤さん。「お金を払ってオレたちの芸を見に来てくれたお客さんを楽しませることと、若者を育てることがオレの人生の最大の愉しみだよ」と言い、今夜もまた「深夜+1」で若者に内藤陳流の生き方を説いている。
内藤さんの突き抜けた「しゃあねぇや」流生き方の前には、直腸がんも「お見それしました」と退散するほかあるまい。内藤さんの2丁拳銃が末永く劇場に響き渡るのを祈りたい。
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