決してあきらめないで、 自分にあった治療法を捜してほしいと笑顔で訴えるその若々しい姿 30代半ばで肺腺がん、10年間で8度の治療を受けた主婦の壮絶な闘病人生
がんセンターの14階から「生かしてください」と祈る
2002年3月、再び国立がん研究センターに入院した。「覚悟しておいてください」と言われての入院だっただけに、松井さんの苦しみも極限状態に達していた。
入院する際、松井さんは小学生の長男・長女の手を握り、「がんばるから、手を離さないでね」と訴えた。また、54歳で亡くなった天国の父親に対して、「54歳までは生かして!」と手を合わせた。長女は小学校4年生になっていた。「娘の入学式は、最初の手術のために出てあげられなかったのです。ですから、卒業式にはどうしても出てあげたいと思い、あと2年は何としてもがんばらなくては、と思いましたね」と、松井さんは述懐する。
もう手術はできないため、抗がん剤と放射線治療を行った。アメリカに渡る担当医師が、最後の病棟回診に来て言った。
「松井さんね、絶対に最後まで捨て鉢になってはダメだよ。どんな状態になっても、最後までがんばっている姿を子どもさんたちに見せなさい。そうしないと、子どもは親の死を受けとめられずに、捨てられたと思ってしまうから。あなたのその姿を見れば、子どもさんはちゃんと育つよ」と。松井さんは涙をこらえながら、大きくうなずいた。
幸いなことに、抗がん剤の副作用は、髪が少し抜けた程度で収まった。「同じ治療をしていた仲間たちが明るく、お互いに励まし合いながらやったのが良かったのだと思います」と、松井さんは言う。
また、国立がん研究センターがまったく新しい、ホテルのような新病棟に変わり、快適だったことも大きかった。
「14階から下を見ると、銀座のネオンがきれいに輝いていました。毎日、夜になると、窓の外を見ながら、両手を広げて祈りました。神仏や天国の父に対して、どうぞ生かしてくださいと。そして、私のことを心配してくれているすべての人たちの顔を思い浮かべ、その人たちの気を集めました。それを毎晩やることによって、精神的に安定し、勇気を奮い立たせることができました」
実は、松井さんはこの入院中、精神的に不安定になり、病院側に「カウンセリングを受けたい」と申し出ている。しかし、国立がん研究センターといえども、まだカウンセラーを置いておらず、精神科で安定剤を処方してもらったという。
3カ月に及ぶ抗がん剤、放射線治���により、形の上ではがんは消えた。しかし、がんはまだ松井さんの体内で息をひそめて生きていた。
手術、抗がん剤、放射線あらゆる治療をやった
がんは治療を重ねれば重ねるだけ、治療の余地は少なくなっていく。その後の松井さんのがんとの闘いは、まさに壮絶の一語に尽きる。
2004年2月に血液検査の数値が上がり、気管支鏡を入れて検査したところ、小さな気管再発が認められ、3月に1カ月の通院で放射線治療を受けた。まだピンポイント照射がなく、首一面に放射線を当てたため、首の皮が1枚取れた。軽い肺臓炎にもなった。放射線が食道にかかると、物が食べられなくなり、栄養ドリンクで間に合わせたりもした。
2006年3月に左肺の下に小さな転移が見つかった。国立がん研究センターでラジオ波治療の第1号にならないかという話もあったが、2年前からピンポイント照射の定位放射線治療を行っている都立駒込病院で、保険診療になったばかりのピンポイント照射治療を受けた。
同年6月、声帯の近くの気管に再発した。声帯を失う可能性のある手術はできない。放射線もすでに目一杯当てていたため、とりあえず抗がん剤のイレッサで叩くことになった。しかし、副作用がすごく、口の周りに湿疹があふれ出て、3~4週間で中止した。このとき松井さんは、「治らない以上、抗がん剤はやめよう」と決心した。
東京では打つ手が無くなったとき、友人の母親が新聞記事の切り抜きを持ってきた。トモセラピーという新しい放射線の器械が、名古屋の愛知がんセンターにあるという記事だった。すぐに行ったが、松井さんの症状には使えなかった。
2006年12月、愛知がんセンターの医師の紹介で、名古屋共立病院で新しい頸部定位放射線治療を受けた。血液検査の数値は下がらなかったものの、この治療によって声帯近くの気管再発がんは消えた。
2008年2月、右肺に再発し、都立駒込病院で、動脈からカテーテルを入れ、病巣に抗がん剤を打つシスプラチン動注治療を2回と放射線治療を行って、数値も正常に戻り現在に至っている。
こうしてみてくると、「ありとあらゆる治療をやってきました。私の身体はボロボロです。もしまた、肺や気管に再発、完治を望むならもう打つ手は陽子線治療しか残っていないのかもしれません」という松井さんの言葉も、あながち間違いではないだろう。
しかし、陽子線治療は先進医療で保険が利かないために、300万円以上かかる。
「これで絶対に治るのであれば、私も何とかして出しますが、その保証がない以上、これからまだ子どもの教育費もかかりますから、出せませんね」と、語るその表情に無念さは感じられなかった。
子どもが16歳になり気持ちが楽になった

松井さんが入院するたびに集めていた自身のカルテ等の資料
松井さんが最初に手術をしてから、ちょうど10年が経過した。
「肺がんは治らない」と言われるが、松井さんは凛として生きている。
「私の肺が正常に、働いているのは左上だけです。次にそこにがんが出たら、またピンポイントで放射線を照射することになるでしょう。前に治療した部分と同じところに出たら、もうアウトだと思います。そういう意味では達観しているのかもしれません」
そういう松井さんだが、いま少し気が楽になった部分があると言う。それは、この10年の間に、子どもさんが元気に成長したことである。
「16歳になれば、子どもも親の死を受け止められるようになると国立がん研究センターの先生に言われたことがあります。昨年、下の娘が16歳になってくれましたから、その意味では少し気が楽になりました」
しかし、松井さんの身体がボロボロになりつつあるのは否めない事実である。最近、坂道や階段を昇り降りするのがつらい。また、真夏のむせるような暑い空気や、真冬の凍えるような冷たい空気を吸うと、呼吸がつらい。そんな体と上手に付き合いながら、松井さんははつらつと生きている。
おそらく松井さんの心身は、極限の綱渡りをしているような緊張にさいなまれているに違いない。その苦しみ、悲しみをいささかも見せることなく、毅然として笑顔で取材に応じている松井さんを目の前にすると、「神よ、仏よ、松井薫さんを救い給え」と、心の中で手を合わせたくなる。
松井さんは、最初の段階で、がんとの向き合い方を誤ったという反省を持っている。あまりにもがんを知らなさすぎたという後悔である。もし、バス健診で「要再検査」と言われたとき、大きな専門病院へ行っていたら、がんを小さな段階で切除でき、完治していたかもしれないという思いである。
しかし、その反省も後悔も思いも、今となってはせんないことである。今、松井さんは「がんとちゃんと向き合わなければ、恐怖ばかりが募り、ストレスになります。焦っても、いい結果は出ないと思います。
やるだけやって、ダメだったらしかたがない、ただがんは自分の細胞が変化したものですから、気持ちをしっかりと持ち、悪さをしないよう語りかければ、何度再発しても、こうして元気に生きていられます」と明るく笑った。
がんと闘う恐怖を突き抜けた境地である。松井さんは取材中に、ふっと「私、40何年間、好きに生きてこれたと思います」という言葉を洩らした。
いやいや、薫さん、あなたの真骨頂を見せるのはこれからですよ。
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