「歯肉がん、メラノーマは神さまから与えられた宿命です」 モンゴルでゴミ拾いツアーを実践する2度のがんを乗り越えた大道芸人の心意気
メラノーマの手術後1カ月で仕事に復帰
知り合いの医療ジャーナリストに相談した。靴下を脱いで、患部を見せると、「あらぁー!」と驚きの声を上げ、それが悪性黒色腫、メラノーマであることを教えてくれた。源さんは、「どこかいい病院を知りませんか」と相談し、都心のT病院を紹介してもらった。
源さんのメラノーマはステージ2だった。T病院では、初診に行ったその日のうちに、入院から手術までの日取りがすべて決まり、30日間の入院が必要なことも知らされた。「すべてが1日で決まり、あとは手術を待つだけという状態になったことで、ある程度安心しました」と、源さんは振り返る。
手術は昨年10月18日に行われた。「手術でかかとを削るので、3カ月は仕事は無理かもしれませんよ」と言われた。源さんは「3カ月も休んでいられない。一生懸命リハビリし、絶対に早期に仕事に復帰するぞ」と決意して、手術台に上がった。
実際、手術後1カ月、退院してすぐに大道の舞台に復帰した。靴や足袋の土踏まずの部分にスポンジを入れて、痛みを押しての復帰だった。「楽屋では足を引きずっていても、ステージではそれは見せられませんからね」、芸人魂である。
現在でも、ときどき通院し、検査を受けている。足の裏から肉が盛り上がってくるうえに、ジクジク感も残っている。メラノーマとの闘いは続いている。
歯肉がん、メラノーマ、あまり聞き慣れない2つのがんに相次いで襲われた源さん、その不運をどう受け止めたのだろうか。
「歯肉がんにかかったときから、生きているというマジな部分を意識するようになりました。それまでは日常をボーッと過ごしてきた感じがありますが、それからは毎日毎日の生き方を、深い部分で考えるようになりましたね。また、メラノーマにかかったときには、これが自分に課せられた宿命だと思いました。がんになる人、ならない人がいますが、私はあまり聞かないがんに相次いでかかり、手術をしたわけですから、これはもう神さまがくださった宿命と受け止めるしかありませんね」
ケーシー高峰さんから「なまりを直せ」

T病院では���血液中に細胞がんがあるかも知れません」と言われている。だから、源さんはそれなりの覚悟はしている。しかし、その立ち居振る舞いは、大道芸人らしく、あくまでも明るく、威勢がいい。その背後には、源さんの35年になんなんとする大道芸人としての生きざまがある。
役者を目指して天童市から上京した源さんが、「新宿ゴールデン街あたりをふらふらしながら、アングラ系の小劇場で芝居をかじっていました」という疾風怒濤の時代を経て、大道芸人の道を歩き始めたのは、昭和47年のことである。
新宿の歩行者天国で、東京湾の汚染問題をネタにした「街頭世直し紙芝居」を演じ、大道芸デビューを果たした源さんは、そのうちに新聞、週刊誌に取り上げられ、テレビの「小川宏ショー」に出演する。そこに同じ山形県出身の先輩芸人、ケーシー高峰さんがいた。ケーシーさんは、紙芝居の前で自ら演技をする源さんの芸風を「面白い」と評価し、「同じ山形か。遊びに来いよ」と言ってくれた。
源さんは「グラッチェ!」とばかりに、その日のうちにケーシーさんの事務所に遊びに行った。その後3年ほど、源さんはケーシーさんの弟子となり、ケーシーさんが地方公演から東京に戻ったときには、キャバレー回りなどのお伴をした。
その間に、ケーシーさんは源さんに「大道芸にはフリートークが必要だ。なまりを直せ」とアドバイスした。「師匠自身、なまりがとれていないのに」と思いつつも、「ガマの油売り」「バナナの叩き売り」などの口上芸に関心を持っていた源さんは、必死になまりを直す努力をした。
生計を立てるために、ケーシーさんの事務所からカラオケの司会の仕事を斡旋してもらったこともあった。覚えたばかりの「ガマの油売り口上」や「ういろう売り口上」、早口言葉などを、カラオケのつなぎで披露していると、ある会社の社長から、「面白いから、ウチの会社の創立記念日にやってほしい」とお声がかかった。大受けに受けた。自信が湧いてきて、ネタを少しずつ増やしていった。 気がついたら、押しも押されもせぬ「大道芸人・源吾朗」が立っていた。
大道芸の国際化に伴い11年続けてモンゴルへ

20世紀が終わりに近づいたころ、大道芸の世界でも国際交流が始まった。日本各地の広場で外国の大道芸が見られるようになるのと並行して、日本の大道芸が世界に出ていくようになった。源さんはそのトップランナーの1人だった。
1989年にニューヨークで公演したのを皮切りに、ロサンゼルスにおける「日系2世50年祭」、ドミニカにおける「コロンブス新大陸発見500年祭」、パリにおける「東京・パリ友好都市10周年記念祭」など、海外公演が相次いだ。
その中の1つが、日本・モンゴル文化協会が主催した「日本・モンゴル文化交流使節団」である。源さんは1992年から2002年まで、11年間連続してモンゴルを訪れ、日本の大道芸をウランバートル・スフバートル広場などで披露している。ただ、その道程は決して平坦ではなかった。
文化協会から「モンゴルで大道芸を披露していただけませんか」との話が舞い込んだとき、源さんは二つ返事で引き受けた。しばらくして協会から書類が届いた。「渡航費38万円」とあった。源さんは「エエッ!」と、腰も抜かさんばかりに驚いた。
しかし、「行きます」と言った以上、大道芸人にも意地がある。「姉や妹からお金を掻き集めて、とにかく行きました」という源さんにとって幸いだったのは、毎日新聞が源さんの現地での活動を毎日追いかけて、1週間連載してくれたことだ。毎日コレクトコールで担当記者に電話をし、青い月、果てしない大草原の素晴らしさをレポートした。
「ガマの油売り」は口上を披露しながら、自らガマになってジェスチャー入りで演じた。通訳は、当時「モンゴルの歌姫」として「NHK紅白歌合戦」にも出場したオユンナさんだった。モンゴルの子どもたちは屈託のない笑顔で大歓迎してくれた。
源さんは最初にモンゴルを訪れた1992年、子どもたちから「また来てねーっ!」と言われ、「また来るよーっ!」と答えて、モンゴルを去った。どこの国へ行っても交わす、別れの挨拶である。しかし、そこで源さんは思った。「モンゴルの子どもたちには嘘はつけない」と。以来11年続けてモンゴルを訪れることになる――。
モンゴルの自然のためにゴミ拾いツアーを実践

「当時のモンゴルには、私が少年時代を過ごした昭和30年代の天童の光景が、そのまま残っていました。子どもたちは父母を尊敬し、率先して水汲みを手伝っていました。日本が戦後半世紀で失ってきた懐かしいものが、モンゴルにはあった。私は1度でモンゴルに癒やされ、魅せられてしまったのです」
1993年に鳥インフルエンザ、SARSの問題があり、源さんの12年連続モンゴル行きはストップした。源さんがモンゴル行きを再開したのは、平成18年(2006)のことだ。芸人仲間とモンゴルの学校を訪問し、大道芸で子どもたちを楽しませた。相手は変わっても、モンゴルの子どもたちとの再会はうれしかった。しかし、源さんは、近代化に伴うモンゴルの変貌を見逃さなかった。
「ひと目で気がついたのは、ゴミの出方が以前とは違うということでした。街なかもそうですが、草原や清流にゴミが出ているんです。美しい保養地の渓流にもゴミがよどんでいました。何とかしなきゃと思いました」
昨年、源さんは芸人仲間とともにモンゴルを訪れ、現地の子どもたちとともにゴミ拾いを実践した。そして、今年は、一般の観光客とともにモンゴルでゴミ拾いをするツアーを企画し、5月末から6月上旬に実践する。
「モンゴルでのゴミ拾いは今後も続けていくつもりです。これは継続することが大切だと思います。黙々とゴミ拾いを続けていれば、言葉は通じなくても、気持ちはつながっていきます。それが本当の国際友好、国際交流だと思います」
源さんの瞳の中に、とても2つのがんと闘ったばかりの人とは思えない、大草原の東雲の空に昇る朝日のような輝きを見た――。
同じカテゴリーの最新記事
- 病は決して闘うものではなく向き合うもの 急性骨髄性白血病を経験さらに乳がんに(後編)
- 子どもの成長を見守りながら毎日を大事に生きる 30代後半でROS1遺伝子変異の肺がん
- つらさの終わりは必ず来ると伝えたい 直腸がんの転移・再発・ストーマ・尿漏れの6年
- 家族との時間を大切に今このときを生きている 脳腫瘍の中でも悪性度の高い神経膠腫に
- 子どもの誕生が治療中の励みに 潰瘍性大腸炎の定期検査で大腸がん見つかる
- 自分の病気を確定してくれた臨床検査技師を目指す 神経芽腫の晩期合併症と今も闘いながら
- 自分の体験をユーチューバーとして発信 末梢性T細胞リンパ腫に罹患して
- 死への意識は人生を豊かにしてくれた メイクトレーナーとして独立し波に乗ってきたとき乳がん
- 今を楽しんでストレスを減らすことが大事 難治性の多発性骨髄腫と向き合って