「はらたいらに全部」―あなたがいたから乳がんも治せた 漫画家はらたいらを支え続けた糟糠の妻・原ちず子さん

取材・文:江口 敏
発行:2008年4月
更新:2018年10月

高校の先輩はらさんと東京で再会したが……

写真:「モンローちゃん」の原画
「モンローちゃん」の原画を大切に飾ってある

『ゲバゲバ時評』『モンローちゃん』など多くのヒット作を生み出した漫画家であり、「クイズダービー」の解答者としても一世を風靡したはらたいらさんが亡くなったのは、平成18年11月のことだ。

最後は肝硬変・肝臓がんであったが、はらさんが晩年、『はらたいらのジタバタ男の更年期』という著書に象徴されるように、男の更年期障害に悩まされていたことは、よく知られている。

ちず子さんに言わせると、「主人の更年期障害が出てきたのは、私が乳がんの手術をしたあたりからでした」ということである。ちず子さんの乳がんを心配し、毎日ため息をつき、「死ぬなよ、死ぬなよ」と繰り返している間に、「もともと主人が内に秘めていた更年期障害の要素が表面に出てきたのではないか」と、ちず子さんは感じている。

それは、「私がいなかったら、主人は漫画家になれなかったでしょう」と言い切れるほど、はらさんを全身全霊で支えてきた、ちず子さんならではの感覚に違いない。

ちず子さんは高知県立山田高校で、はらさんの1年後輩だった。はらさんは高校時代からナンセンスマンガを描いており、それが廊下に飾られるほどの上手さだった。はらさんが漫画の天才であることは、自他共に認めていた。友だちが高校で、はらさんの描いた小さなマンガを額縁に入れて売ると、結構売れた。はらさんはある種有名人で、生徒会活動をしていたちず子さんも、はらさんの名声はよく知っていた。

ちず子さんは高校を卒業すると、当時、豊島園遊園地内にあったホテルに就職することになり、上京した。ある日、新宿で山田高校の同窓会があり、出席してみると、そこに1年先輩のはらさんがいた。はらさんはベレー帽をかぶり、プロの漫画家を装っていた。ちず子さんの目には、売れないのに無理して威張っているように見えた。その日、はらさんはちず子さんにコーヒーをご馳走した。「私が主人にご馳走になったのはその1回だけで、以後はいつも私がご馳走してました」と言う。

不遇時代のはらさんを支え続けた日々

はらさんは当時、3段ベッドの木賃宿を根城に、漫画を出版社に持ち込んでは断られる、赤貧洗うがごとき生活だった。高校時代のはらさんの実力を知るちず子さんは、なぜ売れないのか不思議だったが、はらさんの才能を信じ、毎月のように豊島園を訪ねてくるはらさんに、給料の半分を渡すのが常となった。

ちず子さんが上京した年の大晦日の夜、セ��ター1枚にマフラー姿のはらさんが、豊島園に訪ねてきた。いつもは強がっているはらさんが、その日はしおれていた。はらさんは沈んだ目で、「俺、もう高知に帰るしかない……」と言ってうなだれた。

はらさんが生涯のなかで、ちず子さんに惨めな姿を見せたのは、そのとき1回だけだった。その言葉を聞いたちず子さんは、まだ手をつけていないボーナス袋を、そのままはらさんに渡した。

「当時はまだ、奥さんになりたいとは思わなかったのですが、何とか漫画家として成功してほしいと思ったのです」

はらさんが「俺はおまえのヒモだ」と自嘲する関係が続いた。ちず子さんはこのままではブラウス1枚買えないと、給料の良い会社に転職した。昼間は新橋の会社で事務を執り、夜はジャズ喫茶で終電ぎりぎりまで働いた。毎月25日になると、はらさんが給料の半分を取りに来た。結婚はまだしていなかったが、ちず子さんはまさに糟糠の妻であった。

「主人は1歳半のときに父親を亡くし、祖父母に育てられたためでしょうか、自分でできることと言えば、顔を洗い、歯を磨き、トイレに行くことぐらいでした。ネクタイもうまく結べませんでした。最後の20年ぐらいはまったくネクタイをしないで過ごしましたから、主人が亡くなる3カ月前に母が亡くなり、喪主を務めたときに、ネクタイが締められなくて困りました」

仕事と酒の人生で肝硬変・肝臓がんに

写真:次女(0歳)長女(3歳)1973年当時のはらさんとちず子さん
次女(0歳)長女(3歳)1973年当時のはらさんとちず子さん
写真:2003年、自宅マンション屋上にて
2003年、自宅マンション屋上にて

「5~6歳の幼児がそのまま大人になった」ようなはらさんだっただけに、晩年、更年期障害を患い、さらに肝硬変・肝臓がんに苦しむはらさんの世話をするのは、並大抵のことではなかったに違いないが、ちず子さんは淡々と振り返る。

2人の娘さんも、はらさんのただ1人の弟子である漫画家さとう有作さんも、はらさんが1人では電車の切符を買うことも、銀行や郵便局へ行くこともできない人であることを知っていた。だから娘さんたちは、「お母さん、お父さんより1分でも長生きをして」と言い、さとうさんは「奥さんに先生より先に死なれると困る」というのが口癖だった。

はらさんは不遇な時代から酒飲みだった。ちず子さんが寄り添った20歳から、亡くなる63歳まで、「休肝日はゼロでした」と言う。30代半ばには、ドクターストップがかかるほど肝臓は悪化していた。

その頃、ちず子さんに強く言われて、しぶしぶ病院に検査に行くと、100以下が正常とされるγ-GTPの値が700を示したこともあった。

しかし、はらさんは酒をやめることができなかった。内科医にこんこんと説得され、「アルコールを抜いた、抜いた」と言っていたときもあったが、ちず子さんは仕事場の押し入れにウイスキーのポケット瓶が隠されていることを知っていた。見て見ぬふりをしたのは、好きなようにさせてあげることが、はらさんの生きるエネルギーにつながることを、ちず子さんは長年の二人三脚で得心していたからである。

「晩年は絶対に検査に行こうとしませんでした。入院でもさせられて、仕事がストップすることが怖かったんですね。主人の一生を振り返ってみると、仕事とお酒だけの人生でしたね」

「主人がいたからこそがんを克服できました」

写真:はらさんに毎日掌を合わせ語りかける
はらさんに毎日掌を合わせ語りかける

はらさんの体調が急に悪化したのは、平成18年9月、高知で母親の葬儀を済ませて帰京してからだった。ちず子さんは以前から、はらさんの体力の衰えを感じており、最悪の場合、要介護5の認知症だった母親より、はらさんのほうが先かも知れないと覚悟していた。だから、はらさんが何とか母親の葬儀の喪主を務められたことに、ホッとしたというのが正直なところだった。

しかし、母親の逝去ははらさんに大きな喪失感を与えたに違いない。体調不良を訴えて、都内の大学病院で検査を受けた。その前夜も楽しい酒を飲んだ。結果はCランク、つまり末期の肝硬変で、しかも肝臓に直径3.7センチの悪性腫瘍が見つかった。ちず子さんは医師に、はらさんにがんであることを告げないように頼んだ。医師ははらさんに、「肝臓に小さなおできができていました」と言った。はらさんは「な~んだ、おできですか。じゃあ簡単に治りますね」と返し、ちず子さんには「おできだったから良かったよ」と言った。

はらさんは死期が迫っていることにまったく気づかず、ちず子さんを信頼しきっていた。しかし、医師はちず子さんに「余命は短ければ1カ月半ぐらい、長ければ10年ぐらい」と告げた。 今考えればこの幅のある余命の告知は私たちに希望を持たせてくれる医師の気遣いだったのかもしれないとも思っている。

最後の1カ月は、がんの名医がやっている埼玉県のM病院に入院した。白髪でやさしい風貌の院長のもとで、はらさんは納得して入院生活を送った。カテーテルを入れてがんを集中的に攻撃する動注療法を1回だけ試してみた。

その後、はらさんは食事のときに椅子に座り損ね、床に尻もちをついて骨折したのを機に病状が悪化し、肝性脳症という認知症にも似た症状も現れ、3度の吐血を経て、11月10日に彼岸に旅立った。63歳であった。

『はらたいらに全部―夫の愛し方、看取り方』

ちず子さんがはらさんへの思いを込めて書いた1冊

1周忌が終わったのを機に、ちず子さんははらさんと暮らした思いで多い都心の住まいを引き払い、燦々と陽光が降り注ぐ郊外のマンションに1人暮らししている。和室にははらさんの写真が飾られた仏壇がおかれ、ちず子さんは毎日掌を合わせ、はらさんに語りかけている。

「あなた……、私はあなたがいたからこそ、乳がんも骨折も早く治せたのよ。がんも再発する暇がなかったのよ。
あなたのために全身全霊で尽くしてきたことを、神さま仏さまが見ていてくださって、元気にしてくださったのよ。どうもありがとう。43年間、毎日24時間、はらたいらが私のすべてだったわ。充実していたわ。ありがとう……」

はらさんが亡くなったあと、ちず子さんは『はらたいらに全部―夫の愛し方、看取り方』(アスコム刊)を出した。「はらたいらに全部」とは、テレビ番組「クイズダービー」で、正解率が高いはらさんに全部賭ける人が多かったことに由来する、司会者大橋巨泉さんの名文句だが、原ちず子さんの生きざまこそ、「はらたいらに全部」だった――。

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