がんと「闘う」のではなく、「共に生きる」が生存力の秘訣 くり返し襲って来る乳がん転移の恐怖を乗り越えて

取材・文:守田直樹
発行:2007年11月
更新:2013年8月

脳腫瘍をガンマナイフで撃破

意識が戻ると、人工呼吸器に対する強烈な苦痛を感じはじめる。話ができず、目は痛み、耳鳴りもして耐えられないと筆談で訴えると、看護師が気管切開をすることをアドバイスしてくれた。ドクターは喉に傷がつくことを心配したが、荒金さんは、「楽なほうがいい」とお願いした。

実行すると、嘘のように苦しみから開放された。そのときの体験が、のちに自らの臨床現場で役に立つ。多くの患者は気管切開を恐れるが、体験者の荒金さんが「ぜったい楽になる」とアドバイスすると、それを素直に受け入れ、後から感謝されたことも1度や2度ではない。

それ以来、荒金さんは高音の声を出すことができない。学生時代にコーラス部に入っていた自慢の高音だ。だが、「みんなに気遣われるのが嫌だから」と、仲間が出かけるカラオケには積極的に参加してきた。

温泉もそうだ。乳がんの手術前には家族みんなでよく行っていたが、手術後気にしていることが伝わった。

「私のせいでみんなが行けないというのが何よりつらいし、行くことにも意味を見出せたんです。温泉で出会った人が何年かのち、もし乳がんになって全摘したとき、『元気に温泉に来てる人がいたなあ』と思い出してもらえたら、この傷も役に立つと思ったんですね」

仕事も看護部長の秘書的な仕事から、97年に「在宅医療指導管理室」に復帰。訪問看護を元気にこなすうちに退院から9年が経過。そんなある朝、左目の視力の低下に気づいた。

眼科では異常は見つからず、9月に入ってCT検査とMRI検査を受けたところ、脳下垂体に2カ所の腫瘍が認められた。普通の人なら、10年ほどの歳月で完治を期待しても不思議はないが、荒金さんは、こう思った。

「来るべきものが来た」

その年、広島市内のある病院が最新のガンマナイフ治療装置をたまたま導入。ガンマナイフは特殊な放射線を病巣に集中させてたたく治療法。傷害が少なく、3日間で日常生活に戻ることができる。荒金さんは、それをそのまま実証した。

「金曜日に治療して、土日を休んで月曜日には仕事に戻りましたよ」

治療は成功し、脳腫瘍の影は消えた。

心停止からの奇跡の生還

写真:退職直後の7月に友人と隠岐(島根県)へ

退職直後の7月に友人と隠岐(島根県)へ。
「2回目なんですが、自然がすばらしいのでもう1度行きたい」

それから2年。今度は肝臓の左に3.5センチの再発が見つかる。

荒金さんは、岡大病院の「ラジオ波焼灼療法」を選択する。ラジオ波は、鉛筆の芯くらいの太さの針をCTや超音波の画像ガイドで患部へ挿入し、ラジオ波と呼ばれる電磁波を流して腫瘍を死滅させる治療だ。2センチ以下が適応の目安だったため、化学療法で小さくしてからラジオ波で焼こうとしていた。

ところが、治療の最中、それまでは近くの美術館への散策を楽しめていたのに、病院内の廊下すら歩くのが苦痛になった。本来なら抗がん剤治療の終了後にも入院すべきだったのだろうが、広島県での講演の約束があり、無理を押して地元へ戻ると肺炎を発症。すぐに呉共済病院に入院すると共に、

「病室のベッドにバタンと倒れ、心停止したんです。」

ここでも奇跡的な幸運が重なった。

病室は看護師の詰め所から最も離れた特別室だったが、たまたま次男の嫁が昼食の差し入れのために来院。すぐにナースコールを押してくれたし、たまたま循環器のドクターも居合わせ、素早くペースメーカーを入れることができた。

この大騒動の時間中、荒金さんは不思議な体験をしている。

「意識は無いのに、声だけが聞こえるんです」

嫁が驚いてナースコールをする声、ドクターが『ペースメーカーを入れましょう』という声、地下の検査室に運ばれる音など、すべてはっきりと覚えているという。

「在宅で看取りをする場合など、ご家族に『最後まで聴覚はのこっているので声をかけてください』って言ってきたけど、それがまさに本当だということを実体験したんです」

役立ったインターネットのがん相談

写真:送別会で

看護師の同僚たちが送別会を開き、思い思いのプレゼントを手渡してくれた

荒金さん自身が「試練」と表現する再発は終わらない。06年に3度目、07年に4度目の肝臓再発に見舞われた。

「今度の再発は『またか』と、さすがにショックでした。1年も経っていないし、1~2カ所だったらラジオ波で焼くんですが、今回は約7カ所と数が多いんです。でも、気持ちを切り替え、とりあえず抗がん剤で消せるものは消していこうと決めました」

最初はアリミデックスというホルモン剤を服用するが、副作用で強い全身関節痛が起こった。

「車をバックさせるときに、首と肩が痛くて後ろを振り返れないんです。当時はまだ現役。仕事ができずに困ったのでゼローダ(一般名カベジタビン)っていう薬に変えると、今度は手の平と足の裏が火傷したみたいに炎症を起こしたんです」

痛みで歩けないので薬を変えて欲しいと主治医に頼むと、インターネットの「がんのWeb相談室」へ相談。回答者の乳腺外科の専門医とのやりとりで、フェマーラ(一般名レトロゾール)という副作用の少ない薬に変更した。

「ゼローダは、朝晩4錠ずつというすごい量を飲んでいたんです。それにエンドキサン2錠ずつにホルモン剤とかを加えるので10錠ぐらい朝晩飲んでたんですけど、フェマーラっていうのは小さな錠剤を1日1錠ですむ。2週間ごとに超音波で肝臓の大きさを見ていますが、大きくはなっていない状態です」

いまはフェマーラの効果を見極めている。

闘うのではなく、共に生きる

写真:「第3回がん患者大集会」で講演

8月の「第3回がん患者大集会」で壇上にのぼり、参加者へ思いを伝えた。これまで行った講演は300回あまり。
「そこで多くの人と知り合い、多くのことを学びました」

写真:がん患者大集会後に開かれた懇親会にて

がん患者大集会後に開かれた懇親会にて。右端が荒金さん、左から2番目ががん患者団体支援機構理事長の俵萠子さん、その右が今大会事務局長の浜中和子さん

いつの頃からか、荒金さんは「がんと闘う」のではなく、「がんと共に生きる」と考えるようになった。

「30年くらいものすごいハードな生活を送ってきて、この病気は私自身がつくったと感じるようになったんですね。それなら折り合いをつけながら共に生きていけばいいんじゃないかって思えるようになったんです」

前向きに生きていると、「いい情報などが自然と転がり込んでくる」そうだ。

「ホテルなんかにいるコンシェルジュっていますよね。フランス語で門番っていう意味らしいんですけど、医療コンシェルジュという新しい仕事を偶然、新聞で見つけたんです。門番というより、水先案内人ですね」

大きな総合病院などでは、いろいろな検査を受けるだけで迷い、疲れるもの。そうした案内や、ドクターの話を一緒に聞きながら解説をしてくれる医療コンシェルジュが現在、全国で12カ所の病院で誕生。荒金さんはその認定試験を受けようと考えている。

「余命1~2カ月の命が7~8年長らえられたんだから、ずいぶん得をした人生を歩んでいるんです。いつかはおとずれる限界を、宿命って捉えていこうとしてるんですよ。でも、次の目標である医療コンシェルジュをもう少しやってみたいんです」

体験した後、そういう人を育ててみたいとも荒金さんは語った。


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